fujimoto24 明治大学体育会サッカー部に所属する藤本佳希のルーツを辿る時、避けては通れないのが小学生時代である。本格的にサッカーを始めたのは、彼の2年生時。そして6年生時には、“速くて強い”現在のプレースタイルに多大なる影響を与える「師匠」と出会ったのだった。

 

 藤本家の次男として愛媛県西条市で生まれた佳希は、父・孝司によれば、学校から帰って来たらすぐに遊びに行くような活発なタイプだったという。当時を振り返り、父・孝司は苦笑する。「ご近所にご迷惑をかけていたのではないかと」。当人の佳希も「ヤンチャでしたかね。人を困らせるようなことばかりやっていました」と自省していた。

 

 そんな“ヤンチャ坊主”がサッカーを始めたのは友人に誘われたからだった。チームには入っていなかったが、サッカーは幼稚園時から遊びでやっており、藤本はボールを蹴ることが楽しいと感じていた。だから迷うことはなかった。小学2年で入った地元のスポーツ少年団は大会に出場しないチームだった。そのためチームの指導者の仲介で5年からは大会に出場できる麻生FCとの掛け持ちでプレーした。

 

 「師匠」との出会い

 

 そして6年の時に、今でも「師」と仰ぐ村上裕一と出会うのだった。ある日の試合後、藤本は見知らぬ男性に声を掛けられた。「オマエ、もっとこういうことしたら上手くなれるぞ」。いきなりの声掛けに藤本は「誰だ? この人」と思ったという。それが2人の最初の出会いだった。

 

 一方の村上が抱いた藤本の第一印象はこうだった。

「身長が小さくて、スピードはあるけど下手くそでした。スピード以外、何も取柄が無い選手でしたね。ボールコントロール、タッチは悪いし、シュートもうまくなかった」

 

fujimoto6 では、なぜ声を掛けたのか。村上には「特別なスピードを持っている子は、誰よりもプロになるチャンスがある」との持論があった。藤本は、その特別な才能を持っていた。そして、彼のひたむきな姿勢も村上は評価していた。

「やはりアスリートにとって、速さは武器になる。他の部分はトレーニングをすれば解消していけますから。佳希は特に足が速かった。それに試合が終わるまで、決して手を抜かなかったんです」

 

 のちに分かったことだが、村上と藤本の父・孝司は旧知の仲だった。その縁もあり、藤本は小学6年になってから、週に1度、村上の元へ通い、直接指導を受けるようになった。村上が女子チームを見ていたこともあり、紅白戦や練習の相手は女子選手だった。

「女子チームなんでスピードを使ったら全部抜けてしまうんですよ。だからスピードを封印したトレーニングを卒業するまでやらせましたね」

 村上は藤本が足の速さだけに頼らぬような練習を課した。

 

「師匠」からのアドバイスは、これだけにとどまらない。中学に入ってからは、当時としては比較的珍しい体幹トレーニングに目を向けさせた。村上は大阪商業大時代からトレーニングのノウハウを独学で学んでいた。各カテゴリーの代表に入る選手や、ドイツに留学した先輩から話を聞いて、アスリートの身体づくりを勉強した。体幹の重要性を藤本にも説いた。

 

 一方で藤本自身も持ち味のスピードを試合でなかなか生かせないことに悩んでいた。身長も小さい方で、現在のようにフィジカルが強いわけではなかった。

「サッカーになると、相手が同じくらい速いスピードだったら身体で負けちゃう。その頃は、結構もどかしかったんです。だから“パワーが必要だ”と思っていましたね」

 藤本は村上の助言に従い、バランスボールに毎日のように乗るなどインナーマッスルを鍛え続けた。すぐに効果が表れたわけではないが、ひた向きに積み重ねたことが、着実に力となった。“速くて、強い”現在のプレースタイルの源流がそこにはあった。

 

 育まれた責任と自覚

 

 藤本は小学校卒業後、愛媛FCのジュニアユースに入団していた。しかし、1年の間に数回骨折するなど思うように事は運んでいなかった。試合の出場機会にも恵まれず、悶々とした日々を送っていた。初めての挫折だった。それでもサッカーを辞めようとは思わなかった。

「『ずっとプロになりたい』と言っていましたし、ジュニアユースで出られていない時から、“オレはプロになる”という思いがずっとありました。将来、自分がどうなりたいかと考えた時に、(ジュニアユースを)辞めた方が絶対にいいと。単純にいっぱい練習して、いっぱい試合に出ないと良くないなと、その時は考えていました」

 

fujimoto15 練習場へ通うのにも往復で1時間弱かかる。移動時間だって練習に充てられる。ここで藤本は大きな決断を下す。愛媛FCを辞め、中学のサッカー部へ入る選択をしたのだ。

「辞めるということは、周りから逃げたように思われることもわかっていました。でも後々、自分がそいつらよりも上に行けば、そんなものは何とでもなると考えたんです」

“プロになる”。その意志だけは、決してブレることはなかった。目指すは「全中」。中学での全国大会行きを目標に掲げた。

 

 久米中サッカー部に移ると、出場機会も増え、水を得た魚のようにプレーした。その間、村上との関係も続いた。父・孝司が試合の映像を送り、アドバイスをもらった。技術、フィジカル面だけでなくメンタル面でも多大な影響をもたらしていた。父・孝司によれば、「うまくいかない時とかには厳しくしてもらったようです。気持ちをどういうふうにもって行くかとかも。本人も村上さんと話した後は、すごくモチベーションが上がっていましたね」という。

 

 だが結局、中学で目指した全国大会へはあと一歩届かなかった。3年時、四国大会準決勝で敗れた。恩師である村上は、そこで藤本を慰めるようなことしない。

「叩きのめしましたね。なんでかというと、佳希はFWでプロになりたいわけですよ。周りのみんなが、佳希にボールを集めた。しかし、シュートを決め切れずに、チームは全国に行けなかったんですよ。へこんでサッカーをやりたくなくなるくらい追及しましたよ。『オマエに全てを賭けた周りの人間の想いを背負ってやったのか?』と」

 

 ストライカーは何よりも結果が求められるポジションである。チームの勝敗を背負うことの重みを村上は「グラウンドで死ぬほど泣かせた」という叱咤激励で伝えたかったのだろう。「自分が全国へ連れて行く」。その責任と自覚を持って藤本は、新たなステージへと進むのだった。

 

(第3回につづく)

 

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fujimoto13藤本佳希(ふじもと・よしき)プロフィール>

 1994年2月3日、愛媛県西条市生まれ、松山市出身。小学2年からサッカーを始める。麻生FC-久米中学校-済美高。済美高3年時にはプリンスリーグ四国18試合で32得点を挙げ、得点王に輝いた。全国高校選手権にも出場し、3ゴールをマーク。同校のベスト16入りに貢献した。明治大進学後は2年時の後期から主力の座を掴む。3年時から関東大学リーグ戦で2年連続2ケタ得点を挙げている。来季からはJ2岡山への入団が内定。身長178センチ、体重76キロ。背番号11。

 

(取材/大木雄貴、文・写真/杉浦泰介)


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