fujimoto14「“全国大会に絶対行きたい”との気持ちは半端なくありました。もし行けなかったら“一生後悔する”と思っていました」と藤本佳希(現・明治大)は高校時代を振り返る。中学では辿り着けなかった道へ、県内の強豪である済美高校に進むことで叶えようとした。本人によれば、周囲との衝突も少なくなかったという。「今では笑い話で済みますが、本気で全国に行きたかったので“ここを変えないといけない”と思ったことは全部口に出して言いました。そのためにやれることがあるなら、自分がどうなろうとやってやろうと」。藤本には迷いも躊躇いもなかった。“全国行くためにオレはなんでもやる”。その想いを胸に一路邁進するのみだった。

 

 ライバルが驚く変貌ぶり

 

 中学3年から成長期を迎え、元々は小柄だった藤本も1年間で身長は15センチほど伸びた。取り組んできた体幹トレーニングのおかげで身体つきの逞しさも増していた。その藤本の変身ぶりに驚いた者がいた。

 

hujimoto25 長身FWとしてポジションを争うことになる久保飛翔(現・慶應義塾大)である。

「身体が一気に大きくなっていたんです。顔は一緒なのに“誰?”と思うぐらいに変わっていました。昔は身体を当てられないように、うまくドリブルで切り刻んでいくタイプでしたが、フィジカルを生かして相手を背負いながらでもプレーできるようになっていたんです」

 

 同じFW。2人は出会った頃からライバルだった。

「自然と僕は佳希に“負けたくない”という気持ちが芽生えていました。最初に出会ったのは愛媛FCのスクール。お互い愛媛FCのジュニアユースに『入りたい』と言っていたので、セレクションでも当然ライバルでしたし、入ってからも、その関係は変わりませんでした」。スクール時代は練習の中でも1対1のバトルを何度も繰り広げていた。

 

 しかし藤本はジュニアユースを途中で辞めた。一方の久保は残ってレギュラーの座を掴んでいた。対照的な道を歩み、袂を分かっていた2人。「全国大会へ行く」という同じベクトルを持って再会したのである。

 

 こだわり続けたエースの仕事

 

 済美高サッカー部の顧問を務める土屋誠監督は入学前から“久米中の藤本”の存在は知っていたものの、そのプレーまでは見たことがなかった。

「基礎がそこまでできていなかったんですが、スピードと突破力には優れたものがありましたね」 

 

fujimoto27 荒削りであったが、土屋も藤本に期待するものは大きかったのだろう。

「土屋先生にはボールのないところの動きなどを、色々と指導していただきました。常々、僕のことを『のびしろがある』とも言ってくれていたんです」

 1年の終わり頃には済美のエース番号「14」を背負う。藤本にとっては入学前から付けたいと願っていた特別なナンバーだった。

 

 しかし、その想いとは裏腹に期待のルーキーはトップチームの試合に出ても「ほとんど何もできなかった」という。高校のスピード感についていけず、自分らしさも発揮できぬ日々が続いていた。兎のように一足跳びには進めない。その歩みは遅くとも、着実に前へと進んでいく。藤本に自信をつけたさせたのは、やはりゴールだった。

 

 1年の冬、済美は高円宮杯U-18プリンスリーグ参入決定戦となった今治東高との2試合で勝利した。来季のプリンスリーグ四国入りを決めた済美の6ゴール。そのほとんどを藤本が挙げた。

「そこで掴んだ感覚はちょっとありましたね。以降はほとんどの試合で点を獲れるようになりました」

 

 2年に上がると、昇格したプリンスリーグ四国で14試合13得点とゴールを量産し始める。当時は得点をとることだけにフォーカスを置いていた。元ブラジル代表ロナウドの動きを参考にするなど上達のための研究も惜しまなかった。

「コーチにDVDを渡されて、見るようになりました。ロナウドはトップスピードの中でプレーをするんです。ドリブル、シュートなどもトップスピードなんですが、正確で技術は高い。トップスピードの中で緩急をつけて、GKのタイミングを外したり、かわしたり。真似できるプレーではないですが、参考にしようと思って、結構映像を見ていましたね」

 

“フェノーメノ(怪物)”と呼ばれたブラジル人ストライカーのように、藤本は守備で汗をかくタイプではなかった。本人は「たぶん、この頃は(守備を)サボっていましたね」と頭をかいた。それだけ藤本はゴールにこだわっていた。全国へ行くためには、自分が点を獲ることで、その道に繋がると考えていたからだ。土屋監督も当時の藤本を「得点を獲ることに­すごく飢えている」と感じたという。ストライカーの渇きはゴールでしか潤わせることはできなかったのである。

 

 覚醒したゴールセンス

 

 済美で研鑽を研ぐ一方で“師匠”である村上裕一との関係も続いていた。藤本が高校に入ってからは、村上は体幹トレーニングに加えて、内転筋も鍛えさせた。変わらずアスリートの身体づくりを徹底していたのだった。

 

fujimoto30 身体も出来上がりつつあり、3年になるとストライカー藤本佳希は覚醒する。プリンスリーグ四国で怒涛のゴールラッシュ。18試合32得点で済美を優勝に導き、得点王にも輝いた。キャプテンを務めた久保は、DFにコンバートされ守備の要となっていた。かつてのライバルの背中は頼もしく映ったという。「ゼロに抑えれば、1試合に1点は必ず獲ってくれる安心感がありました。味方としてはすごくやりやすかったですね」。だが、済美はプリンスリーグからプレミアリーグへの昇格はならず。高校総合体育大会(インターハイ)出場は県予選で松山工業に負けたことで叶わなかった。

 

 喉から手が出るほど欲した全国大会への切符は手にできずにいた。最後の可能性は、冬の全国高校サッカー選手権しか残されていなかった。第6シードの済美は県予選を順調に勝ち上がっていった。迎えた決勝戦の相手はインターハイの県予選で敗れた松山工である。

 

 キックオフの笛の音が鳴ってすぐ、スコアボードが動いた。決めたのはオレンジのユニホームの背番号14。藤本だった。敵陣でのスローインで横から入ってきたボールを振り向きざまのボレーで突き刺した。

 

 済美は先制点の2分後に追加点が入り、開始早々に2-0とリードした。21分に1点を返され、押し込まれる場面もあったが後半14分。再び藤本の右足が火を噴いた。相手のクリアボールを拾うと、ミドルレンジからインサイドキックでシュートを放った。ブレながら枠へと向かっていったボールが、ゴールネットを揺らした。

 

 ブレ球の練習はしていたものの、なかなかモノにできずにいた。それがここ一番の場面で飛び出した。

「練習でもロクにやったことがないようなプレーをいきなり出せたんです。チームメイトからは『そんなのオマエ、やったことないだろ』と突っ込まれました。その時のシュートは今でもできないです。あの時の緊張感、自分の状態が可能にさせたんだと思うんですが、いきなり閃きました。思い浮かんだイメージに従ったら、その通りになったので、気持ち良かったですね」

 

 試合はそのまま3-1でタイムアップ。済美にとって4年ぶり4度目の選手権出場、そして藤本にとっては初の全国大会行きの切符を手に入れた。嫌われてもいい覚悟で突き進んだエースの強い思いが報われたかたちとなった。

 

 これには常々、藤本に厳しいことを要求していた村上も頬を緩ませた。

「“あんなプレーが出来るようになったんやなぁ”と思いましたね。それはもうパフォーマンスの高い得点を彼は決めましたから。その後の全国大会でも非凡なゴールが何本もありました」

 3年前には「サッカーをやりたくなくなるくらい追及した」と藤本を叱った村上だったが、この時ばかりは手放しで褒めたという。

 

 その後、初の全国大会は3回戦で敗退した。藤本は3試合で3得点をあげ、全国でその名をアピールした。だが覚醒し始めたストライカーにプロからの誘いはなかった。そこで藤本は高校卒業後、生まれ育った愛媛を離れた。更なる高みを目指すために、関東へとその足を向けたのだった。

 

(第4回につづく)

 

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fujimoto2藤本佳希(ふじもと・よしき)プロフィール>

 1994年2月3日、愛媛県西条市生まれ、松山市出身。小学2年からサッカーを始める。麻生FC-久米中学校-済美高。済美高3年時にはプリンスリーグ四国18試合で32得点を挙げ、得点王に輝いた。全国高校選手権にも出場し、3ゴールをマーク。同校のベスト16入りに貢献した。明治大進学後は2年時の後期から主力の座を掴む。3年時から関東大学リーグ戦で2年連続2ケタ得点を挙げている。来季からはJ2岡山への入団が内定。身長178センチ、体重76キロ。背番号11。

 

(取材/大木雄貴、文・写真/杉浦泰介)


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