fujimoto22 高校卒業後、藤本佳希は更なるレベルアップを目指し、故郷の愛媛を離れた。関東の強豪校・明治大学へと進むために上京したのだった。明大は、東京五輪銅メダルの立役者の杉山隆一、FKの名手として知られる“ミスターマリノス”木村和司ら錚々たるOBがいる。現役選手でもヨーロッパでプレーする長友佑都(インテルミラノ)、山田大記(カールスルーエSC)などを輩出している名門だ。藤本は高校3年時に全国大会出場を果たしていたとはいえ、周りはエリート揃い。定位置を掴むのは容易ではなかった。

 

 彼が明大を選んだのは、済美高校の顧問を務める土屋誠監督の紹介があったからだ。高校3年のある日、土屋からこう声をかけられたという。

 

「関東でサッカーやりたいか?」

「やりたいです」

 

 当時の大学サッカー界の状況はあまりわからなかったが、ほぼ二つ返事だった。そこで土屋が明大側に話をつけ、一度、トレーニングに参加することになった。

「練習に参加した時に、すごくきつくて“ここでやりたいな”と。グラウンドをガンガン走ったことが新鮮で“あれ、自分は走れないんだ”と気付くことができました。先輩たちに比べて走れないし、明らかにそこが自分に欠けていると思ったんです」

 

 とはいえ、この頃はまだ全国高校選手権の出場も決まっていない。「藤本佳希」の名は全国区とは言えなかった。明大側としては「セレクションを受けてくれ」という答えだった。もちろん、受かる保証なんてない。「大学側から呼ばれている選手も、たぶんいたんですが、僕は全国大会にも出ていない分、セレクション次第でした。でも可能性がゼロじゃないなら受けようと」。土屋の推薦も少なからず影響があっただろうが、藤本はアピールに成功し、無事に合格した。

 

「明治に入って、もし潰れたら潰れたで終わり。ここで生き残ったら上は見えてくる」

 小さい頃から思い描いていたプロへの道。そのためには明大で力をつける必要性を感じた。練習で感じたスタミナ面の差をなくし、そして守備力を磨けば「(プロの道へ)近付く」と感じた藤本。18年間、生まれ育った故郷を飛び出したのだった。

 

 そびえ立つ高い壁。露呈した課題

 

 当時の監督・神川明彦(現・総監督)の目に藤本はどう映っていたのか。

「何しろ馬力がある。ちょっと古典的なFWだなというイメージですね」

 高校3年時はプリンスリーグ四国でもゴールを量産していた藤本。冬に出場した選手権では3試合3得点と点取り屋として覚醒しつつあった。

 

 攻撃面での一定の評価はあったが、明大に入学した頃は高い壁があった。トップチームには阪野豊史(現・浦和レッズ)、岩渕良太(現・松本山雅FC)、山村祐樹(現・水戸ホーリーホック)と大学界屈指のFW陣がいた。藤本と同期で選手権優勝の市立船橋高のエース・和泉竜司でさえ、本来のFWではなく左サイドのアタッカーでのプレーを余儀なくされたほどだ。

 

fujimoto9 神川も当時を振り返り、「だから、FWのポジション争いはなかなか厳しかったと思うんですよね。それに藤本はワンタッチ目に大きな課題を抱えていたのと、守備が全くできなかったんです」と語った。藤本本人も口にしていたように、高校時代はかなり得点にこだわってプレーをしていた。それゆえに守備は疎かになっていた。「守備がもう全然できなくて、ポジショニングが取れないんです。全部後追いになっている。そこはかなり僕に、口酸っぱく言われていたと思いますよ」

 

 まず守備から入るのが明大サッカーのスタイルだった。それができなければ、相手にパスをどんどん繋がれてしまう。藤本はその守備でチームに貢献することができなかった。神川は「キョロキョロしている間にパスが入ってしまう。“何やってんだ!”と。別にやる気がないわけでもない。ただ守備のやり方がわかっていない。そんな感じでしたね」と見ていた。課題は明白だった。神川をはじめコーチングスタッフの指導で、守備意識を徹底させた。

 

 転機となった“Iリーグ落ち”

 

「最初から試合に出られるとは全然思っていなかったですし、そんなつもりでは行ってない」

 そう当時を振り返る藤本だったが、大学サッカーのサテライトリーグにあたるインディペンデンスリーグ(Iリーグ)などで出場機会を得て、得点も決めていた。1年の後期リーグ戦ではプレータイムこそ短かったものの、数試合でピッチに立った。翌年の2月には4週間、スペイン・バルセロナへ短期留学。サッカーの本場での空気を肌に感じ、現地のクラブ・オスピタレットの練習にも参加した。

 

fujimoto5 1年から試合に出ている和泉らに比べれば、順風満帆とまでは言えないまでも、着実に歩を進めている気がした。2年となり、ポジションを争う阪野、山村、岩渕は卒業した。“今年はスタメン”。そう意気込んでいた藤本だったが、春を迎えても主戦場はIリーグのままだった。

「ここが大学時代、一番の転機かもしれません。Iリーグに落とされて、そこでもう自分の中で吹っ切れました。“まぁ、いいや”ではないですが、“Iリーグで自分のやることをやっていれば、絶対に成長できる”とだけ考えていたので、落とされても、プレーが全然落ちることはなかった」

 

 トップチームに出た時に何ができるか――。藤本は腐らずにそのことを注視した。夏の大学の全国大会である総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント(総理大臣杯)の関東予選を兼ねるアミノバイタルカップではメンバー入りはできず、ビデオ撮影の係だった。この悔しさも糧にして力に変えた。踏まれても踏まれても、その気持ちは枯れることはなかった。

 

 本人の中では「すごくもがいていた」時期だったという。それでも心は決して折れなかった。中学時代、愛媛FCジュニアユースでの挫折も大きかったのだろう。

「中学での経験があったので、割り切れたんです。自分にとっては、上級生になった時にどうなっていて、試合に出られているかが大事だった。1、2年の時ももちろん重要ですが、そこで出られないからといって、変に腐ったりしてもしょうがない。ちゃんと自分の目標だったり、どうなりたいかというビジョンを持っていれば、その時に出られていないとしても何も問題ないと。結果的にこうなったから言えますが、その時から本当に思っていました」

 

 突き破り始めた“殻”

 

 藤本は自分を見つめ直すと、どこか評価されるばかりに気持ちが傾いていたことに気が付いた。

「それまでは完全に気持ちの面でしたね。トップチームにいる時、自分がすごく小さくなっていた。なかなかうまくいかず、自分のプレーも出せないという感じだったんです。でも2年でIリーグに出ている時には、リーグ戦だろうがIリーグだろうが関係ない。自分が積極的にプレーをして、成長していくことが大事だと。その意識がトップチームに上がった時にも、絶対に繋がると思いました」

 

fujimoto17 意識の変化は好循環をもたらした。ゴールに対して貪欲さを失わず、チームのためにプレーすることもできた。Iリーグでもゴールを重ね、徐々に信頼を掴んでいく。総理大臣杯からは出場機会を増やし、準決勝では得点を決め、決勝もスタメンでプレーした。貫いた強い意志で、藤本は“殻”を突き破り始めていた。迷いが消えれば、あとは進むだけだった。

 

 神川の藤本に与える評価も当然、高まっていた。

「Iリーグではバカバカ点を取っていたので、いずれ出てくるだろうと思っていました。阪野と山村は1年の時から試合に出ていた。こちらも彼らが抜ける穴を誰が埋めるんだというのがありましたから。藤本は、和泉と共に完全に軸として考えていました」

 藤本は焦ることなく地道に積み重ねることで、自らの道を切り拓いていった。

 

 すべての出会いや困難も必然。そう思わせるように、ひとつひとつ壁をクリアしていく。

「足りないところが大学に来てわかったんです。明治は全員がチームのために献身的にやらないといけない。それは明治だけじゃなく、今のサッカーもそうです。自分を根本的に変えてもらって、今は走れるようになりましたし、守備もできるようになった。チームの中で絶対やらないといけないプレーをやりつつも、ゴールを決めることにもこだわる。大学で自分のスタイルが確立されたと思います」

 

 紫紺の魂に染まった藤本は、エゴイスティックではなく献身的なプレーを厭わない点取り屋となった。強さと速さを兼ね備えたストライカーの鋳型は、徐々に固まりつつある。

 

(最終回につづく)

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fujimoto8藤本佳希(ふじもと・よしき)プロフィール>

 1994年2月3日、愛媛県西条市生まれ、松山市出身。小学2年からサッカーを始める。麻生FC-久米中学校-済美高。済美高3年時にはプリンスリーグ四国18試合で32得点を挙げ、得点王に輝いた。全国高校選手権にも出場し、3ゴールをマーク。同校のベスト16入りに貢献した。明治大進学後は2年時の後期から主力の座を掴む。3年時から関東大学リーグ戦で2年連続2ケタ得点を挙げている。来季からはJ2岡山への入団が内定。身長178センチ、体重76キロ。背番号11。

 

(取材/大木雄貴、文・写真/杉浦泰介)


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