五輪の出場資格が23歳以下に限定されたのは、92年のバルセロナ五輪からである。

 

 わたしの勤めていたサッカー専門誌では、その4年前、ソウル五輪予選までは編集部のエースが特集を一手に引き受けていたが、出場資格に年齢資格が適用されたことで状況は一変。特集の規模は格段に減少し、マレーシアで行われる最終予選のリポートも、カメラマンを派遣しておけば十分、ということになった。

 

 だが、88年に入社したわたしにとって、バルセロナを目指す選手たちは特別な存在だった。というのも、入社して初めて書かせてもらった記事は高校選手権で、バルセロナの予選に参加するメンバーの中には、そこで見た選手たちがズラリと顔を揃えていたからである。

 

 結局、編集長に頼み込み、自腹で飛んだマレーシアで、白と“赤”のユニホームに身を包んだ日本代表は、たった一回しか勝つところを見せてくれなかった。天王山だった韓国戦では、終始押しまくられた揚げ句、終了直前、後にコスモ石油でプレーすることになるキム・ビョンスに決勝弾を許し力尽きた。

 

 あの試合、日本の記者団は必勝を祈願して全員が白いシャツを着用していた。なのに、ぐうの音も出ない完敗――。わたしは、打ちのめされた。自分が生きている間に、日本が五輪なりW杯に出場する日はまず間違いなく訪れまい、とまで思った。

 

 サッカーはわからない。

 

 ご存知の通り、4年後のアトランタ五輪予選を日本は勝ち抜き、28年ぶりの本大会出場を果たす。わたしは、彼らが日本サッカーに革命的な進歩をもたらしてくれるものだと確信し、“ジェネレーションA”なるニックネームまで献上した。AとはむろんアトランタのAである。

 

 ところが、マイアミでは奇跡を起こし、それまでとは違う世界との距離感を手にしたはずの世代は、その後、意外なまでに伸び悩む。前園は輝きを失い、それどころか、早々に現役生活に見切りをつける者まで現れた。

 

 一方、アジアですら完膚なきまでに叩きのめされてしまったバルセロナ世代の選手たちは、期待以上の成長を見せる。名波、相馬、名良橋、藤田……多くの選手が日本代表の中核を担うようになった。永井のように、いまなお現役を続けている選手もいる。

 

 リオを目指す五輪代表は、ここまで快調な戦いぶりを見せている。若い選手たちにはぜひとも本大会への切符を勝ち取ってもらいたいものだが、しかし、伝える側、見る側は、この世代での結果がその後に直結するわけではないことを覚えておいた方がいい。

 

 つまり、勝ったからといって天国が待っているわけではないし、負けたからといって、日本のサッカーが破滅するわけではない、ということである。

 

<この原稿は16年1月21日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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