苦しい試合だった。負け試合に等しい内容だった、と言ってもいい。それでも厳しい時間帯をしのぎきり、何とか勝利をつかむことができたのは、試合後の手倉森監督が口にしたように、チームに「大和魂」が宿っていたからなのだろう。リオへの出場権を獲得したチームとその関係者に、心からお祝いの言葉を贈りたい。

 

 長丁場のリーグ戦ならばいざ知らず、今回の予選のような方式となると、必ずしも強いチームが勝つとは限らない。実力はもちろん必要だが、それ以外にも運や流れ、勢いのようなものが必要になってくる。

 

 今回の予選に関して言えば、初戦の北朝鮮戦で早い時間帯に先制できたことが大きかった。というより、あれがなければどうなっていたのか、と背筋に冷たいものが走る。そういう意味では、ここで先制点を決め、大会を通じて守備を引き締めた植田が、わたしにとってのMVPである。付け加えるならば、準々決勝イラン戦で1対1をストップするビッグセーブを見せたGK櫛引も、流れを引き寄せた一人だった。

 

 一方で、攻撃面に関しては見るべきものがかなり少なかったのも事実である。期待された南野が大ブレーキだったのは手倉森監督にとっても誤算だったろうが、それ以上に、どうやって攻めるか、いかにして崩すかということに関するイメージの質が、過去の世代と比べても明らかに落ちていた。

 

 衣食足りて礼節を知る、という言葉がある。今回の予選に参加した若い選手たちは、言ってみれば勝利や自信といった、サッカーにおける「衣食」が満たされずに育った世代だった。礼節を学ぶ余裕などなかった、といってもいい。

 

 サッカーにおける礼節とは、質であるとわたしは思う。勝つだけのサッカーは、当事者のみを興奮させるだけだが、質の高いサッカー、美しいサッカーの感動は国籍や宗教をも超える。そして、質の高いサッカーを追求する上で不可欠なのが、先のクラブW杯でサンフレッチェが見せてくれた「自分たちのサッカーで世界を驚かせるんだ」という大志である。

 

 アジアですらなかなか勝てなかった選手に、世界一を目指せといっても無理な話である。だが、彼らはハードルを越え、見たことのない世界へ足を踏み入れようとしている。ここからの戦いは、ノルマのクリアではない。可能性への挑戦である。

 

 なぜラグビーW杯における日本代表は、日本のみならず世界中の気持ちを揺さぶったのか。彼らに魂があっただけでなく、大志もあったからだった。

 

 リオでの日本代表は、どんなチームを目指すのか。

 

 大志がなくても、勝つことはできる。だが、大志なき勝利は、すぐに忘却の彼方へと押しやられる。願わくば若い日本の選手たちは、“まぬけ”な男になってほしい。“たましい”から“ま”を抜いた――“たいし”を抱く男に。

 

<この原稿は16年1月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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