160205久保ランニング2(加工済み) 久保飛翔は幼稚園の年少から剣道を習っていたが、小学生の時にサッカーと出合った。自発的に「やりたい」と両親に頼み込んで、強豪クラブに所属する。周囲は幼稚園からサッカーを始めていた生徒ばかりでレベルが高かった。当初は久保も久保の両親も、周囲の子供との差に衝撃を受けるが、久保は愛媛FCジュニアユースに合格するまで力をつけた。さらには、サッカーを通じて、人としても成長を遂げていったのだ。

 

FWへの転向を勧めた母の願い

 

 

 

 

 

 

 

 

<2016年2月の原稿を再掲載しております>

 

 

「小学校低学年の時に日韓W杯を見て、“サッカーはすげぇなぁ”と思ったんです。それにたまたま父の知り合いが、その時愛媛で一番強いと言われていた帝人サッカースクールというチームの指導者だった。それで“やってみないか”と誘われたんです」

 

 帝人サッカースクールの練習場には自宅から車で30分ほどかかったという。地元の少年団や小学校のチームでサッカーをするという選択もできたが、強豪チームを選んだ。「迷ったんですけど、やっぱり強い所でやりたいと思った」。幼いながらにも向上心の強さが窺えた。

 

 帝人サッカースクールで与えられた最初のポジションはDFだった。だが、それは長くは続かなかった。当時を振り返り、久保は語る。

「母親が僕にFWでプレーをしてほしかったみたいなんです(笑)。母親から『“FWをやりたい”とコーチに言ってみたら?』と言われました。幼い頃の僕って自分の考えを主張することがなかったので、母親の勧めで『FWをやってみたい』とコーチに伝えてみたら、どこかのタイミングでいきなりFWをやらされたんです。そこからずっとFWでしたね」

 

 母・ミキが息子にFW転向を勧めたのには、理由があった。

「普段はやんちゃな子で、明るくいつもニコニコしていて人当たりが良い子でした。だけど、人前に出た時や、他の子供たちに比べて帝人サッカースクールに入った時期が遅かったというのもあって、サッカーをやり始めた頃は物怖じしていました。だからFWでもMFでも良いのでもっと自分を前に出せるポジションをやってほしかったんです。私はサッカーのことはわかりませんが、飛翔にはサッカーをしている時にハツラツとしてほしいなと思いました。剣道をやっている時は成績も残していたこともあってハツラツとしていましたから」

 

 久保自身はFWでのデビュー戦の出来は覚えていないと言うが、よほど水に合っていたのだろう。そうでなければ、強豪チームでポジションを固定されることは考えにくい。その後も久保はFWとして順調に育っていった。

 

ライバルとの出会い

 

fujimoto28 母親の懸念していた引っ込み思案な性格もサッカーの上達と共に徐々に改善されていく。久保は小学5年生の頃に「プロになりたい」と思い始め、中学では愛媛FCジュニアユースでプレーを目標とする。クラブの雰囲気を少しでも体感したいと考えた久保は、愛媛FCが主催するサッカースクールに参加した。そこで、のちに済美高校とファジアーノ岡山でもチームメイトになる藤本佳希と出会った。ポジションは同じFWで、2人は出会った頃からライバルだった。

 

「自然と僕は佳希に“負けたくない”という気持ちが芽生えていました。最初に出会ったのは愛媛FCのスクール。お互い愛媛FCのジュニアユースに『入りたい』と言っていたので、セレクションでも当然ライバルでしたし、入ってからも、その関係は変わりませんでした。スクール時代は練習の中でも1対1のバトルを何度も繰り広げていましたね」

 

 愛媛FCジュニアユースは基本的には学年ごとにカテゴリーを分けて練習を行う。しかし、小学校を卒業したばかりの久保はいきなり飛び級を経験する。

「1年生の時は、一時期だけ上級生のチームに上げてもらっていました。同学年の試合には出場できたのですが、特に3年生の試合にはまったく出られなかったです。“なんでオレ、飛び級させられているんだろう”なんて思ったこともありました。今思えば、それだけ期待してくれていたんですかね」

 

 久保はFWとして飛び級でプレーした。最上級生になると、チーム事情もあって、センターバックへのコンバートを経験する。この時のことを久保は「“センターバックをやるなら試合に出たくない”とコーチに伝えました。そうしたら、“出られない選手もいるのにその考えはおかしい”と言われてしまいました」と語った。

 

 引っ込み思案の久保にとっては意外な行動だった。本人の胸の内はどうだったのか。

「無理していましたね。この時、FW気質ぶっていたのかもしれません(笑)。こんなこと言うのは自分らしくないなと思っていましたから」

 

 自己主張ができなかった久保が、自分の考えを周囲の人に伝えられるようになっていた。コンバートはプレーの幅を広げる1つの手段だが、彼はこのコンバートで人間としても成長したのかもしれない。

 

 ジュニアユースで様々な経験をした久保は、進路を選択する時期に差し掛かり、大きな決断を下す。ユース昇格ではなく、済美高校に進学し、サッカー部に入ることを選んだのである。その決断の陰には、2つ上の兄が済美高に通っていたこと、母親が済美高のOGでであることと、ライバルの藤本の存在が影響していた。

 

(第3回につづく)

 

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<久保飛翔(くぼ・つばさ)プロフィール>

 1993年11月10日、愛媛県松山市出身。小学2年からサッカーを始める。帝人サッカースクール-愛媛FCジュニアユース-済美高。済美高在学時に本格的にDFにコンバート。全国高校選手権に主将として出場し、同校のベスト16入りに貢献した。慶應義塾大進学後は2年時からトップチームの試合に出場し始める。4年時には大学でも主将に就任し、チームをまとめた。今季からはJ2岡山へ入団。身長186センチ、体重84キロ。

 

 

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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