hujimoto25 中学3年の久保飛翔は進路を選択する時期に差し掛かり、愛媛FCユースではなく済美高校のサッカー部に入る決断をした。

「母が済美出身で、兄も当時、済美の2年生でした。だから僕が入学したら、僕が高校1年生で兄は3年生。兄はスポーツを何もしていなかったのですが、兄が済美に居たから(この高校に対して)親近感はありましたね」

 

 

 

 

 

 

 

 

<2016年2月の原稿を再掲載しております>

 

 

 さらにはライバル・藤本佳希の一声が彼の背中を押した。

「他の県内の高校とか、県外の高校も考えていました。その時に佳希が済美に行くという噂を聞いてメールをしてみました。そうしたら佳希から“結構、(強いメンバーが)集まるらしいよ”と返信がきました」

 愛媛FCのスクール時代から切磋琢磨してきた藤本とは、一時、別々の道を歩んでいた。久保がチームでレギュラーの座を掴んでいた一方で、藤本はジュニアユースを途中で辞めていた。2人は高校で再び同じチームとなったのだ。

 

 久保の入学時には、藤本の他に中学の愛媛県選抜のメンバーがほぼ済美高校に集まった。

「ここなら選手権で全国出場を狙えるんじゃないかと思いました。佳希にも“頑張ろうぜ”とメールを入れて、済美に進学することに決めたんです」

 

FWからDFへの本格的な配置転換

 

 久保は中学時代、一時的にDFを経験したことはあったが、基本のポジションはずっとFWだった。済美高校サッカー部に入部して1年時に迎えた総体でもFWとして大会に臨んだ。入部当初、久保をFWで使っていたサッカー部・顧問の土屋誠は「久保はDFの方が良いのかな」と感じていた。

 

 土屋は、久保がDF向きである理由を、こう語った。

「背が大きいかったこと。そして、すごく頭が良かった。正しいポジションを取れる選手で、予測能力も高い。様々な状況を考えてのポジショニングが求められるDFの方が良いのかなと思いました」

 

 一方の久保はDFへのコンバートについて当初は快く受け入れられたわけではなかった。「嫌でしたけど、どのポジションでもいいからとりあえず試合に出たいという気持ちもあった」。まずはプレー機会の確保を優先させた。

 

 土屋は久保のプレーを見て、DF転向を前向きに捉えられていないと感じたと言う。「久保はDFをやっていた時も“前で点が取りたい”と最初は思っていたと思います。でも“(久保の適性は)そうじゃないんじゃない?”と、久保と起用ポジションについて話をしたこともありました。なぜなら彼が大学でもサッカーをやりたがっていたことも知っていましたし、将来はプロになりたいという目標があった。私は将来的なことを考えてもDFの方が良いと思ったんです」

 

160215久保歩いている(加工済み) 主戦場をFWからDFに変えたばかりの頃は悩んだ久保だったが、ポジションへの慣れと共に徐々にこの転向を前向きに考えられるようになる。久保は「最初はこのポジションは何が楽しいんだろうと思っていました。けど、やっていくうちにパスコースをわざと空けておいて、相手がパスを出した瞬間にインターセプトを狙うとか、少しずつ面白いと思うようになった。FWをやっていた時よりもセンターバックで出場した時の方が良いプレーが増えてきて、“DFの方が向いているのかな”と自分でも思えるようになりました」と話した。

 

歴代3本の指に入るキャプテン

 

 性格が考慮されて久保は3年時にキャプテンに任命される。「僕らの学年で“誰が良いんだ”ってなった時にみんなが“飛翔でしょう”と。自分でもチームを引っ張りたいって気持ちがありました」と、本人も就任に前向きだった。

 

 満場一致で決まったものの、主将ならではの苦労もあったようだ。

「選手一人ひとりの個性が強すぎたんです。愛媛県内ではサッカーのエリート街道を歩んできた選手たちばかりだった。選手の間でサッカー観の違いもありましたし、それをどうまとめるのか苦労しました」

 

 久保の苦労話を土屋に伝えると「まあ、そりゃそうでしょう」と笑いながら続ける。「難しかったでしょうね。久保の代は個性が強い選手が多かったですから。それでも久保は周りとの協調性を大切にしていました。久保は選手たちからいろいろな意見を聞いて判断できる。彼は歴代キャプテンの中でも3本の指に入る選手ですね」

 

 また選手と監督の風通しの良い環境が、久保のリーダーとしての自覚を強めた。

「土屋先生に意見を言うと、しっかり聞き入れてくれる。僕の意見が正しければ練習に取り入れてくれたり、練習方針を変えてくれたりしました」

 柔軟な指導の土屋のもとで、久保は逞しくなっていった。

 

 土屋は「いろいろなことを考えてできるようにならないといけない」と話し、指導者として心がけていることを教えてくれた。「練習を見ていて、“あ、この練習メニュー、上手くいってねぇな”と感じる時がある。そういう時はキャプテン、副キャプテン、他の選手に声をかけて“あの練習どうだった?”と話し合うことはします」。土屋は選手たちに自分で考えて判断することを求めていた。個性豊かな選手たちは、サッカー選手としてだけではなく、一人の人間としても成長を見せていった。

 

 歴代屈指のキャプテンがチームをまとめる済美は、冬の全国高校サッカー選手権で、済美史上最高のベスト16という結果を残す。仲間と切磋琢磨した3年間を過ごした久保は、愛媛県を飛び出す決断をする。次の進路は関東の慶應義塾大学の体育会ソッカー部。期待を胸に慶應の門を叩いた久保だったが、入学後すぐに「初めての挫折」を経験する。彼はどんな挫折を経験し、どう乗り越えたのか。

 

(第4回につづく)

 

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<久保飛翔(くぼ・つばさ)プロフィール>

 1993年11月10日、愛媛県松山市出身。小学2年からサッカーを始める。帝人サッカースクール-愛媛FCジュニアユース-済美高。済美高在学時に本格的にDFにコンバート。全国高校選手権に主将として出場し、同校のベスト16入りに貢献した。慶應義塾大進学後は2年時からトップチームの試合に出場し始める。4年時には大学でも主将に就任し、チームをまとめた。今季からはJ2岡山へ入団。身長186センチ、体重84キロ。

 

 

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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