160219久保ランニング(加工済み) 済美高校を卒業した久保飛翔は、関東の名門・慶應義塾大学に進学するが入学早々、久保は精神的なスランプと長期のケガの二重苦に悩まされる。当時を久保は、「初めての挫折だった」と語り、こう続けた。「大学1年の時に、自分のプレーが全然通用しない。それに周りはヴェルディユース、マリノスユースなどと出身を聞いてビビッていました」。大学サッカーのレベルの高さに圧倒されてしまい、自分を見失ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

<2016年2月の原稿を再掲載しております>

 

心身を大きくさせた半年のドクターストップ

 

 精神的なスランプと同時にケガも負ってしまう。医師には恥骨結合炎と診断され、久保は約半年間の安静を余儀なくされた。加入したばかりの選手からすれば、ポジション奪取のために監督へ猛アピールをしたいところだ。このタイミングでの半年間の離脱は痛いはずだが、久保は「この期間がないと、たぶん今はない」と過去を懐かしむように振り返ってくれた。

 

「大学に入って全く自信がなくなって萎縮してしまいました。ヘディングも勝てないし何もできない。そんな時に半年近く休めたことで先輩のプレーをずっと見て学ぶことができました。試合のDVDでも、同じポジションの先輩の動きをずっと追いかけて見ていましたね。それで少しずつ(求められていることが)わかるようになってきた」。元々頭の良さを買われてDFになった久保は、大学サッカーを客観的に見たことでさらに戦術眼を高めたのだった。

 

 この半年で鍛えたのは、頭脳だけではない。医師からは恥骨周辺を動かさない筋力トレーニングは許可されていた。「“もっと体を作らないと”と思って筋トレをしたり、しっかりご飯を食べたり、意欲的に体重を増やそうとしました。栄養講習会に参加して体を大きくするためには一日に5、6回は食事をした方がいいと習ったので“じゃあ、やってみるか”と」

 

 その甲斐あって、高校時には72キロだった体重がケガの癒える頃には82キロまで増えた。久保が復帰した時の慶應ソッカー部のカテゴリーは大きく分けてA、B、Cと分類されていた。復帰してからはCチームに合流し、遠征に出向いて試合を重ねた。久保は1カ月後にはBに上がり、さらに1カ月ほど経つとAチームに昇格した。

 

 下のカテゴリーで自分のプレーに手応えを感じていた久保は、自信を持ってAチームに上がった。しかし、久保が思っていたよりトップチームは甘くなかった。「BとAですごい差があるんですよ。パススピード、ボールに対するアプローチ、1対1の強さ……。1つ1つのレベルが違いました。“うわ、まだダメだ”と思いましたね」

 

 トップチームと自分の実力に差を感じ、自分の技術を磨くトレーニングをしたかった久保だったが、Aチームのサブならではの苦しみを経験する。大学サッカーは年間を通して行われるリーグ戦に標準を合わせる傾向にある。トップチームは組織力を高めるための戦術練習や疲労を溜めないために軽めの調整に時間を費やす。そのため、個人のスキルを上げるための時間はなかなか確保できない。

 

 

久保はこの時の心境を語った。

「その時はAチームには居ましたが、試合に出場できるほどの実力はまだありませんでした。Aチームは毎週リーグ戦があるので、その試合に向けての調整がほとんど。サブ組は全部スタメン組のための練習をするわけです。自分が出られないのに、チームのために相手をするばかり。試合直前の2日間は練習量が少なくて“これで、うまくなれるのかな”と思っていました。その時はチームのために自分が何かをするんだって、本当に心から思えなくて……」

 

 悩んでしまい、気持ちが落ちると久保のパフォーマンスも低下していった。久保はメンタル面もプレーも持ち直すことができず、1カ月半でBチームへの降格を言い渡される。それから間もなく、リーグ戦も終了し、大学サッカーはオフシーズンに突入した。入学から半年間の休養、復帰、トップ昇格、降格――。気持ちの浮き沈みと立場の昇降を繰り返した久保の1年はどん底の形で幕を閉じた。

 

スランプから吹っ切れたシーズン

 

 どうせサブだし――。

 

 一見、後ろ向きの言葉だが、この開き直りが久保の2年時の成長の糧となる。練習量の少ないAチームのサブという立場に悩んでいた久保は下のカテゴリーに落ちたことで吹っ切れる。公式戦出場は遠のいたとしても、いつかチャンスは回ってくると信じ、その時のために久保は自身を追い込むと決めたのだ。

 

 久保が2年時の慶應ソッカー部のチームスタイルは堅守速攻だった。DF陣は「つながなくていい。全部ロングボールを蹴れ」と指示されていたという。ここで久保はチームのコンセプトよりも、自分のスキルアップを優先する。久保は「“どんなボールも蹴れ”“全部クリアーしろ”と言われていました。その時はそれでよくても、プロに行くためにはそれではダメだとわかっていたんです。奪ったボールをどうやってマイボールにするのかを考えていました」と語った。

 

160219久保インサイドパス(加工済み) 考えたら実行するのが久保だ。

「練習でミスしてもいいから。どうせサブだし(笑)。とにかく自分が伸びるためにやってみようと思いました」。チームのコンセプトと少々違っても、自らの能力を高めるために練習ではボールをつなぐことを意識して取り組んだ。

 

 開き直りはこれだけにとどまらない。目の前の1試合に標準を合せる必要がないと考えた久保は「コンディションとかどうでもいいと思っていたので、筋トレや体幹トレーニングをひたすらやった」という。

慶應ソッカー部の施設は充実しており、グラウンドは全面人工芝で、筋力トレーニングの施設も完備されている。

 

 トレーニングルームで肉体を追い込んだのだろうと思いながら話を聞いていたら、久保の口から意外な言葉が出た。

 

「日吉は坂が多いんですよ。調度いい坂を見つけて走っていました」

 彼は慶應大学日吉キャンパスの傍で、特訓場を見つけたのだった。人知れず坂道ダッシュを繰り返した。

 

 久保は苦しかった当時を回顧する。

「人前で何かをやるのは嫌いなんです。陰でこっそり差をつけたかった。坂ダッシュをやっていると臀部がキツいんです。“ケツが強くなったら、もっと当たりが強くなるんじゃないか”と何もわからずにとりあえずやっていました」

 

 陰の努力が実り、久保は2年の後期に再度Aチームに昇格する。当時の慶應はリーグ戦後期で4連敗するなど低迷し、2部降格圏内だった。10月、11位の慶應は10位の日本体育大学との残留に向けた大一番を迎える。そこで久保にスタメン出場のチャンスが回ってきた。

「日体大も負けると1部残留が危うい状況でした。本当に大事な試合で、スタメンで使ってもらえて、その試合に勝てたんです。おかげでその後も、スタメンで使ってもらえました」

 

 久保の活躍もありチームは1部残留を果たした。1年生の時には「チームのためにとは、心から思えなかった」と話した久保が、試合に出場したことでレギュラーとしての自覚も芽生えた。「3年生になったら、自分がチームを引っ張ってやろう」。そう胸に誓い、久保は2年時の年度末に行なわれた鹿児島遠征に出向いたのだった。

 

(最終回につづく)

 

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

<久保飛翔(くぼ・つばさ)プロフィール>

 1993年11月10日、愛媛県松山市出身。小学2年からサッカーを始める。帝人サッカースクール-愛媛FCジュニアユース-済美高。済美高在学時に本格的にDFにコンバート。全国高校選手権に主将として出場し、同校のベスト16入りに貢献した。慶應義塾大進学後は2年時からトップチームの試合に出場し始める。4年時には大学でも主将に就任し、チームをまとめた。今季からはJ2岡山へ入団。身長186センチ、体重84キロ。

 

 

(文・写真/大木雄貴)

 

 


◎バックナンバーはこちらから