合同自主トレがスタートして1カ月。練習試合も2度実施し、ここまでは順調に来ています。特に2年目以降の既存の選手がオフシーズンにしっかりトレーニングをしてきた様子がうかがえたのは良いことです。昨季を踏まえて何をすべきか、自覚が出てきました。

 今季、僕たちは「打ち勝つ野球」を目指します。他チームのチームづくりはわかりませんが、昨季の戦力と比較すると、22盗塁の鷲谷綾平、18盗塁の増田大輝(巨人育成)が抜け、機動力は落ちています。となると、打ってランナーを還し、得点を重ねるしかありません。新加入の選手に一発長打が期待できる選手がたくさんいるわけではありませんが、全員が「打ち勝つ」ことを意識して練習に取り組んでほしいのです。この自主トレではスイング量を増やし、打力の強化に力を注いでいます。

 あえて「打ち勝つ野球」を掲げた理由は、もうひとつあります。それは多くのお客さんに楽しんでもらいたいからです。球場に来るファンは地味な投手戦よりも、派手な打ち合いの方がおもしろいでしょう。僕は徳島に来て3年目になりますが、観客動員の少なさは気になっています。同じ徳島のサッカーJ2のヴォルティスがホームゲームに何千人も集めているのに、我々の試合は数百人止まりです。

 どうすればファン層を広げ、何度も球場に足を運んでもらえるか。それには「また観たい」と感じてもらえる要素を増やすことが重要です。勝利やNPB選手の育成のみならず、試合の中身でも魅せることができれば、関心を持ってくれる人は増えると信じています。観客動員がアップすれば、球団も潤い、球場イベントの充実や目玉選手の獲得に乗り出す好循環が生まれます。そのきっかけを現場からもつくっていきたいのです。

 今回、台湾球界で初の2000本安打を放った張泰山の加入も注目度を高めるひとつの手段だととらえています。泰山とは、統一セブンイレブンでコーチ、監督を務めた際に一緒にやった仲。僕が監督をしているならと、向こうから「徳島でプレーしたい」と話をもらいました。台湾では有名選手とあって、現地メディアでも取り上げられるなど話題になっています。台湾でもアイランドリーグのことが広まれば、挑戦してみようと思い立つ若者たちも出てくるでしょう。

 泰山にとって日本での野球は初体験。台湾との違いを感じる部分があるはずです。統一ではコーチ就任の打診を断り、現役続行にこだわったと聞いています。いずれは台湾で指導者になる人間でしょうから、日本で学んだことを財産として生かしてほしいと願っています。

 もちろん、戦力的に泰山は実績があり、経験も豊富ですから、打線の軸になってくれることでしょう。ただ、もう39歳。シーズン通じて、どこまでできるかは未知数です。むしろ日本人の若手が泰山に負けないよう、奮起してほしいと感じています。理想は、既存の選手がベースとなって、その上に泰山をはじめとする外国人がかみ合うスタイルです。

 今季は他にもミャンマー出身のゾーゾーウー(元香川)、パキスタン出身のアブドラ・バラ(八潮高-06ブルズ)と多国籍な陣容となります。まだ発表していませんが、外国人はさらに左投手が1名、野手が2名、入団予定です。野手のひとりは肩が強く、ピッチャーとの二刀流も可能ではないかと考えています。このように興味を持ってもらえる選手をひとりでも増やすのも僕たちの仕事です。

 これからスタートするキャンプでは紅白戦を実施し、実戦形式で選手を見極めていくことになります。投手陣では福永春吾エドワード・ウィリアム・ブランセマの2本柱に次ぐローテーション投手を確立しなくてはいけません。その第1候補は左腕の山藤桂。昨季はリーグ選抜の一員として北米遠征に参加し、経験を積みました。しかし、今季初実戦となった2月25日のハンファ・イーグルス戦では2回4失点。ふがいないピッチングとなってしまいました。サウスポーはバラやウーなどの加入で競争が激化しただけに、彼も登板機会の保証はありません。現状に甘んじることなく、危機感を持って臨んでほしいと思います。

 バッテリーを組むキャッチャーも1枠をめぐる争いです。昨季、メインでマスクをかぶった宮下直季に、2年目の中島健介も伸びてきました。守備や打撃に落ち着きが出てきて、今季は出番が増えるでしょう。未発表の新人選手も含め、3人でポジションを奪い合うことになります。

 チーム内が活性化すれば、戦力が底上げされ、プレーの質も高まります。勝っても負けてもいい試合ができると、ファンの方にも「また来よう」と思っていただけるでしょう。そのためには残り1カ月、まだまだ全体的なレベルアップが求められます。今年は野球で徳島を盛り上げ、さらに応援していただけるチームになるよう頑張ります。

 

中島輝士(なかしま・てるし)プロフィール>:徳島インディゴソックス監督
1962年7月27日、佐賀県出身。柳川高時代はエースとして3年春の甲子園に出場。プリンスホテルに進んで野手に転向する。87年のソウル五輪予選で日本代表に選ばれて活躍。本大会でも好成績を残し、チームの銀メダル獲得に貢献する。89年に日本ハムにドラフト1位で入団。1年目に史上2人目となるルーキーの開幕戦サヨナラ本塁打を放つ。92年はオールスターに出場し、打率.290、13本塁打をマークした。96年に近鉄に移籍後、98年限りで引退。その後は近鉄や日本ハムで打撃コーチ、スカウトを歴任。11年には台湾の統一セブンイレブンでコーチとなり、12年途中からは監督に昇格する。14年は徳島のコーチを務め、15年から監督に就任。


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