<パラアスリート 大学が育てる>。4月26日付の朝日新聞に、このような見出しが躍っていた。スポーツの名門・日体大が「障害のあるトップアスリートの育成」に乗り出したというのだ。

 

 これまでなら「パラアスリート」の部分は「障害者アスリート」、もしくは「障がい者アスリート」だろう。「パラアスリート」という表記に変わったのは、私が知る限り最近である。

 

 一昨年3月、「日本障害者スポーツ協会」は「日本障がい者スポーツ協会」と名称を改めた。「害」を「がい」に変えたくらいで何が変わるのか、といぶかしがる向きもあるだろう。そのことは同協会も自覚しているようだ。<それによって障がいのある人に対する差別や偏見が払拭される等、本質的な問題解決になるとは考えていません。しかし、当協会としては、たとえ少数であっても活字の「害」を不快に思う人に配慮するとともに、社会の意識を変える一つの誘因にもなるよう期待し、当協会の権限の範囲内において「がい」の表記に改めることにしました>(日本障がい者スポーツ協会HP)

 

 そもそも、何をもって「障がい」というのか。ずっと、そのことに疑問を持ち続けたパラアスリートがいる。車椅子バスケットボール元日本代表の根木慎志だ。根本は小学生相手に、よくこんな例え話をする。「僕の友達に河合純一君という目の不自由なメダリスト(パラリンピック競泳元日本代表)がいる。先生の立っている位置がお店、その前のラインを点字ブロック、マイクを白杖だとしよう。お店に入ろうとする河合君の前、つまり点字ブロックに荷物が置いてある。さぁ、何が障がいだろう? そう荷物なんや。目じゃないよね。要するに障がいとは社会が作ってるものなんや」

 

 根木の論法に従えば、表記が「害」か「がい」かは大した問題ではなく、「障害(がい)」という言葉そのものを人間に対して使用している現状こそを問うべきだとのテーマが浮上してくる。

 

 国際パラリンピック委員会が「The disabled」という単語を不適切なものと見なし、「Para-sports」を推奨している理由も、そこにある。

 

 以前にも書いたが健常者がやろうが障がい者がやろうがスポーツはスポーツである。わざわざ後者を「パラスポーツ」と区別して呼ぶこと自体おかしい。しかし、そこまでいくには時間がかかる。今は「パラスポーツ」なる新語を理想へのトランジションと好意的に受け止める時期なのだろう。

 

<この原稿は16年4月27日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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