ヤクルトという球団は時折、驚くようなビッグネームを海の向こうから連れてくる。古くはヤンキースでミッキー・マントルやロジャー・マリスとクリーンアップを組んだジョー・ペピトーン、近年ではブレーブスの主砲として活躍したボブ・ホーナーが双璧か。

 

 ホーナーの場合、退団後に「日本の野球はカーボン・コピー(均質で無個性)」と述べるなど、今でいう“上から目線”の発言が目についたが、それでもやるべきことはやった。93試合で31本塁打。打球のスピードと飛距離はケタ外れだった。文字どおりの「黒船」だったと言えよう。

 

 翻って大した仕事もせずトラブルばかり引き起こしていたのがペピトーンである。デビュー戦こそ巨人の新浦寿夫から決勝タイムリーを放つなど鮮烈だったが、その後は練習はスッポかすわ、無断で帰国するわとやりたい放題。成績はわずか14試合に出場しただけで1本塁打、2打点。帰国後は銃やコカインの不法所持で何度も警察の世話になった。

 

 ヤクルト時代のペピトーンの狼藉は他球団にも知れ渡り、外国人不要論を唱える者まで現れた。これに心を痛めたのが親日派のオーナーとして知られたドジャースのピーター・オマリーである。オマリーは“罪滅ぼし”とばかりにドジャースでくすぶっていたチャーリー・マニエルをヤクルトに送り込む。その誠実な人柄を買ったのだ。

 

 昨秋、オーランドにマニエルを訪ねた。プール付きの豪邸にはヤクルトや近鉄時代の帽子やユニホームが大切に保管されていた。フィリーズの監督として08年のワールドシリーズを制した彼は間違いなくメジャーリーグの成功者である。

 

 78年、ヤクルトは球団創設29年目にして初のリーグ優勝、日本一を果たす。39本塁打、103打点のマニエルはもちろん功労者のひとりだが、広岡達朗監督の彼への評価は芳しくなかった。不仲も伝えられた。その真相は?「ヒロオカが私の守備と走塁を非難した時、私は思わず憤ってしまった。だが彼は正しかった。指揮官は妥協してはいけない。規律を破るものを許してはいけない。私が米国で成功したのはヒロオカ流を持ち込み、実践したからだ」

 

 首脳陣に暴力的行為に及んだヤクルトのクローザー、ローガン・オンドルセクの登録が抹消された。チャーリーなら、どう説教するだろう…。不意に昔ながらの赤ら顔が頭に浮かんだ。

 

<この原稿は16年6月29日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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