聞かれるたびに、ちょっぴり複雑で、懐かしくて、嬉しくもなってしまう。

 

「パラリンピックを楽しむにはどうしたらいいのですか?」

 

 思うに、これは日本ならではの質問ではないか。本来、スポーツはゲーム。五輪にしても、正式名称はオリンピック・ゲームズ。ゲームとは、楽しいからこそゲーム。にもかかわらず、「楽しむためには?」という質問が出てきてしまうのは、この国のスポーツの多くが、学校教育における「義務」でもあったからなのだろう。依然としてスポーツが「体育」と訳されてしまっている現状と合わせて、いささか複雑な気分である。

 

 ただ、わたしには同じような質問を、いまとは比較にならないほどたくさん受けた経験がある。

 

「サッカーを楽しむためにはどうしたらいいんですか?」

 

 きっと、日本中のサッカー関係者が同じ質問にさらされまくったことだろう。Jリーグ開幕当時のことである。

 

 若かったわたしは、あのころ、律儀に答えを探した気がする。どちらかのチームを応援してください。いや、好きな選手を作ってください。果ては、賭けてください――。ただ、どんな答えを提供しても「響いた!」と手応えを感じることはなかった。

 

 当然である。サッカーは、そもそも楽しい。だからこそ日本や米国を除く圧倒的多数の国で国技として愛されてきた。楽しむためには? そんな質問自体が、愚問の極みだったのだ。

 

 言うまでもなく、そうした質問を受ける機会は、年を追うごとに減少していった。いわゆるドーハの悲劇で激減し、マイアミの奇跡、ジョホールバルの歓喜あたりで完全消滅した。いま、「サッカーを楽しむためには?」という質問をぶつけられたら、きょとんとするか、ケンカを売られたかと感じる人が多いのではないか。

 

 だから、嬉しい。

 

 パラリンピックを楽しむ方法を聞いてくれる人が増えたということは、生真面目な日本人が、本気でこのジャンルに目を向け始めたことの証である。メディアの取り扱いを見ても、わたしは、四半世紀前のサッカーにまつわるさまざまな動きと同種の匂いを感じる。

 

 二宮清純さんも書かれていたが、パラリンピアンとは健常者の先輩である。パラリンピアンにとって優しい街づくりをすることは、高齢者にとって優しい街を作ることにもつながる。レガシーとしての意味を考えるならば、五輪よりも有意義といってもいい。

 

 ただ、サッカーがそうであるように、あるいは数多あるソフトメーカーから発売されるものがそうであるように、ゲームには退屈なもの、お粗末なものもある。それはパラリンピックにしても同じこと。「ああ、つまんなかった」という意見が普通に聞かれるようにならなければ、そのジャンルは、まだ本物ではない。

 

<この原稿は16年9月15日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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