このところメディアで「説明責任」という言葉を目にしない日はない。「説明責任を果たせ」と詰め寄られ、「そんな責任はない」とはねつける剛の者を見かけることは、あまりない。

 

 この国で「説明責任」なる言葉が市民権を得たのは、いつくらいからだろう。私見だが、医療従事者が患者に、これから行う医療行為を説明し、合意を得る作業――すなわち「インフォームド・コンセント」なる言葉が海の向こうからもたらされたあたりからではないか。

 

 その意味でなら、「説明責任」は尊重されるべきである。同じように企業からステークホルダーへ、あるいは行政から市民への説明も、なるべく丁寧になされるべきだと思う。しかし、それは果たして全ての業界や組織においてあてはまるものなのか。そんな疑問を抱いていた矢先だっただけに強く印象に残った。

 

 13日付の本紙にサッカー日本代表FW本田圭佑のコメントが紹介されていた。先発落ちが伝えられたロシアW杯アジア最終予選サウジアラビア戦を前にして、こう答えたのだ。「監督が決めること。外す選択をするということはいろいろな理由がある。監督は説明する必要があるし、納得できるもんであれば受け入れる必要がある。意見を聞く?求めるのではなく監督は説明する義務がある」

 

 代表監督のバヒド・ハリルホジッチは本田を先発から外し、結果的にそれは吉と出た。この“成功体験”により、おそらく指揮官は、今後も同様の使い方をするだろう。

 

 さて私は本田のコメントを受けて、珍しく考え込んでしまった。選手の起用法について「監督は説明する義務がある」のか否か。もちろん、その背景には本田の代表への強い責任感と自らに対する誇りがある。それは「俺は代表でこれまで、自分で道を切り開いてきた。代表にふさわしい選手かどうかは自分で判断できる」との言葉に裏付けられている。指揮官は彼の実績に敬意を払い、置かれている立場に配慮すべきだろう。

 

 だが、選手の起用法に対し「説明する義務がある」とまでは思わない。戦略や戦術上の秘密や機密もあるだろう。指揮官の「説明責任」は選手の願望なのか権利なのか。そして選手の主張はどこまでが妥当でどこからが越権なのか。少なくともそれは両者の力関係で決まるものではあるまい。敢えて言えば、指揮官が負うべきは「結果責任」であって、「説明責任」ではない。

 

<この原稿は16年11月23日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから