2006年アテネ、2012 年ロンドンと、車いす陸上選手として2度のパラリンピックを経験した花岡伸和選手。トラック競技、マラソンと日本のトップを走り続けてきた花岡選手にとって、ロンドンで目の当りにした世界との差は大きな衝撃だった。「一から強化しなければ、世界には追いつけない」。その思いを胸に今、日本身体障害者陸上競技連盟の副理事長として車いすチームの強化に奔走している。2年後に迫ったリオデジャネイロ、そして 2020年東京を見据えた強化策とは――。現状と今後の展望を訊いた。

 

伊藤: 花岡さんはロンドンパラリンピックでは車いすマラソンで日本人最高位の5位入賞を果たしました。その後、陸上選手としては現役を引退。現在はハンドサイクルでリオデジャネイロを目指されています。そして、陸上では日本身体障害者陸上競技連盟の副理事長および車いす競技の強化部長を務めています。そこで今回は、転換期を迎えていると言われる選手強化について、お話を伺いたいと思います。

 

二宮: まずは2年前のロンドンパラリンピックのことを伺いたいのですが、陸上はメダルが期待されていた選手が多かった。ところが、結果的には銀3、銅1に終わりました。花岡さん自身はどう感じましたか?

花岡: ひと言で言うと、惨敗でした。将来性という面から見れば、何人かの若手の台頭もありましたが、全体的にどの種目も世界には通用しなかったなと。

 

伊藤: アテネでは 18個のメダルを獲得し、北京ではアテネを下回ったものの、それでも 12個でした。それがロンドンでは4個と激減。その要因とは何だったのでしょうか?

花岡: 日本チームも北京から確実にレベルアップしていました。でも、世界の成長スピードはそれ以上だったんです。日本が置いていかれていることを感じざるを得ませんでした。

 

二宮: 日本が弱くなったのではなく、他国がものすごい勢いで強化が進んでいると?

花岡: はい、そうなんです。ロンドンで陸上チームのキャプテンとして開幕前の記者会見に出席したのですが、僕はその時自信を持って「今回の日本チームは史上最強です」と言いました。それくらい、当時の強化体制ではやれることはすべてやったという手応えを感じていたんです。でも、それでは世界に通用しなかったというのが実情でした。

 

 東京で実を結ぶリオでの経験

 

二宮: 次のリオは2年後に迫っています。 2020年東京パラリンピックを考えると、やはりリオである程度の結果を出さなければなりませんよね。陸上チームとしての対策とは?

花岡: 僕が一番強く感じていることは、「一からやるしかないな」と。付け焼刃での対策では、とても通用しませんからね。例えばマラソンで言うと、ロンドンパラリンピックのメダリスト3人は全員がジュニア世代から上がってきた選手たちなんです。それこそ子どもの頃に車椅子でのかけっこ競争からスタートして、短距離、中距離、長距離と距離を伸ばし、最後にはどの種目でも世界のトップに躍り出てきた。そういうジュニアからメダリストを育て上げるというシステムが構築されているんです。日本もそういうシステムづくりから始めていかないといけないと思っています。

 

伊藤: システムづくりは一朝一夕ではできません。

花岡: はい。正直、2年間で構築するのは難しいと思っています。ただ、これはあくまでも個人的な希望なのですが、 2020年東京を考えれば、たとえ結果は期待できなくても、リオには可能な限り若手を送り込みたいなと。というのも、東京が初出場では結果を期待するのはあまりにも酷です。通常のパラリンピックでも平常心でいることは大変なのに、自国開催となれば、よりプレッシャーがかかる。そういう場で、未経験の選手に結果を出せというのは、非常に厳しい。

 

二宮: つまりリオでは結果よりも経験を重視して、それをバネにして東京で花を咲かせると。

花岡: はい、そうです。リオを捨てるというと語弊がありますが、東京を見据えた大会にできればと思っています。

(第2回につづく)

 

花岡伸和(はなおか・のぶかず)プロフィール>
1976年3月13日、大阪府生まれ。プーマ ジャパン所属。1993年、高校3年時にバイク事故で脊髄を損傷し、車椅子生活となる。1994年から車椅子陸上を始め、2002年には1500メートルとマラソンの当時日本記録を樹立した。2004年アテネパラリンピックに出場し、マラソンで日本人最高位の6位入賞。2012年ロンドンパラリンピックでは同5位入賞を果たした。同大会を最後に陸上選手としては引退。現在はハンドサイクルに転向し、2016年リオパラリンピックを目指している。現在は国内外のパラサイクリング大会に出場する傍ら、日本身体障害者陸上競技連盟強化委員会車椅子グループ部長を務める。


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