山本浩二監督率いる新生・侍ジャパンは16日にキューバ代表を相手に初陣を迎える。今回、若手主体の代表メンバーに入り、ジャパンのユニホームに初めて袖を通すのが千葉ロッテの角中勝也だ。四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスからNPB入りして今季が6年目。今季は4月途中に1軍昇格を果たすとヒットを量産し、終わってみれば中島裕之(埼玉西武)を抑え、初の首位打者に輝いた。独立リーグ出身選手がNPBで個人タイトルを獲得するのはもちろん、日本代表に選ばれるのも初のケースである。原石から一気にスターの輝きを放ち始めた角中のこれまでを二宮清純の原稿で振り返る。
(写真:代表発表の会見にも出席し、「緊張している」と明かした)
 愛媛県松山市にある坊っちゃんスタジアム。千葉ロッテマリーンズの外野手・角中勝也が、この球場でプレーするのは入団1年目のフレッシュオールスターゲーム以来、5年ぶりのことだった。ここは独立リーグ「四国アイランドリーグPlus」に所属する愛媛マンダリンパイレーツの本拠地でもある。

 オールスターゲーム第2戦。2番ライトで出場した角中は、打席に立つたびに大きな声援を浴びた。最終回には、「(高知)ファイティングドッグスの時は雲の上の存在だった」という藤川球児(阪神)と対戦した。

 日本で初めてのプロ野球独立リーグであるアイランドリーグは今年で創設8年目を迎えた。これまで外国人選手、復帰組を含め、37人をNPB(日本プロ野球組織)に送り込んでいる。この中で角中は初めてオールスターゲーム出場選手となった。いわば独立リーグ出身者の出世頭である。

 石川県七尾市生まれの角中が四国・高知にやってきたのは、日本航空第二高(現・日本航空石川)を卒業したばかりの18歳の時だった。四国アイランドリーグのトライアウトに合格。所属先は高知に決まった。

 なぜ独立リーグで野球をしようと思ったのか。
「本当は高校卒業後は社会人野球に進もうと考えていたのですが、3年夏の県予選で早めに敗退したことで社会人入りの話が立ち消えになってしまった。じゃあ、どうしようか……となった時に高校の監督さんの薦めもあって、アイランドリーグのテストを受けた。ここで結果を残して、1年でも早くNPBに行きたいと思っていました」

 高知の監督は巨人などでピッチャーとしてプレーした藤城和明。開幕からトップバッターや中軸に起用し、不振に陥っても角中を使い続けた。いわば恩師である藤城の目に、6年前の愛弟子の姿はどう映っていたのか。
「色の黒い、どんくさい子だなぁ……というのが最初の印象ですね。ただバッティングには光るものがあった。スイングが鋭いんです。速いボールには滅法強かった。
 ただ、当時は変化球が打てなかった。あまりにも打てないので“オマエ、変化球のない国に行って野球やれ!”と怒ったことがあります。 本人も悔しかったんでしょうね。変化球を打てずに三振してベンチに戻ってくると泣いていましたよ。
 研究熱心な一面もありました。スイングを10本ぐらいすると、頭を抱え込んでいる。おそらく自分が描いていたイメージと違ったんでしょうね。逆に5本くらいでも自分が納得したスイングなら“僕はもうOKです”と言ってひとりで帰っていく。人に影響されない、我関せずという性格は、その頃からプロ向きだったと思いますね」

 アイランドリーグは将来のNPB、MLB入りを目指す若者のためにつくられたリーグである。角中の場合、給料は月12〜13万円で9カ月間の支給。借りたマンションに4人で暮らしていた。当時、高知の球場にはナイター設備がなかったため、試合後は公園の電灯の薄明かりを頼りに素振りを行った。こうした努力の甲斐あって、シーズン終了後、大学生・社会人ドラフトで角中はロッテから7巡目指名を受け、晴れてNPBプレーヤーの仲間入りを果たした。

 しかし、NPBの水は甘くなかった。2軍では1年目から打率3割3分5厘(イースタンリーグ2位)をマークするなど、怖いものなしだったが、1軍のピッチャーが投げるボールには対応できなかった。
 振り返って角中は語る。
「速いだけのピッチャーならファームにもたくさんいました。しかし1軍のピッチャーは、その速さのままで(ストライクゾーンの)隅に決めてくる。
 たとえば岩隈久志(現マリナーズ)さん。ストレートはホップするし、フォークは三振を取りにいくのと簡単にストライクを取るのと2つある。どうやって打っていいのかわからなかったですね」

 転機は3年目の09年オフに2軍打撃コーチに就任した長嶋清幸のアドバイスだった。
「セカンドの方を向け!」
 いったいこのアドバイスの意図はどこにあったのか。角中の解釈はこうだ。
「僕の場合、悪い時はバットのグリップが内側に入り過ぎる傾向があったんです。こうなるとバットがスムーズに出ないから、詰まったファーストゴロやセカンドゴロが多かった。
 ところが長嶋コーチのアドバイスを受けて、あらかじめセカンドの方を向く感覚で構えておくと、(バットが)内に入らない分、スムーズに出る。これによって、詰まらされた当たりが極端に減りました」

 10年から2軍監督を務めた高橋慶彦の指摘も大きかった。高橋が説いたのは「準備の大切さ」である。高橋本人に確かめてみた。
「角中はスイングは速いんだけど、始動が遅かった。だから、こう言ったんです。“オレはピッチャーがボールをリリースする時には、いつでも打てる準備をしていた”と。
 彼はすぐに理解してくれたと思いますよ。野球に対してハングリーですから。苦労してプロになった男だから、与えられたチャンスをモノにしようという思いは、誰よりも強いものを持っていましたね」

 6年目にして素質が開花した。驚いたのは交流戦だ。セ・リーグのピッチャー相手に打ちまくり、打率3割4分9厘で交流戦の首位打者になった。リーグ戦再開後、規定打席数に達した4日後の7月1日にはパ・リーグの首位打者に躍り出た。

 これで一躍、全国区に。1軍と2軍を行ったりきたりの頃は、カドナカとかスミナカと呼ばれることもあったが、もう名前を間違って呼ばれることはない。
「僕が活躍することで独立リーグの評価が上がり、後に続く人が出てくればうれしいですね」
 いぶし銀の勝負師は、控えめな口調でそう言った。

<この原稿は2012年10月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載された内容を元に再構成したものです>