「和製ノーラン・ライアン」がプロの世界に飛び込む――。東京ヤクルトから2位指名を受けた小川泰弘は、元メジャーリーグの速球王、ノーラン・ライアン(現レンジャーズ球団社長)を彷彿とさせるピッチングフォームで、結果を残してきた。東京新大学リーグでは通算46試合に登板し、36勝3敗。特筆すべきは防御率0.60で「ドクターゼロ」の異名をとった。左足を高く上げる現在のフォームはいつ、どのように出来上がったものなのか。
―― 現在のフォームになった経緯は?
小川: 大学3年の時に今のフォームにしました。それまでは野茂英雄さんの“トルネード投法”のように、腰をひねって上から投げ下ろすという感じだったんです。でも、3年春は4勝2敗と、初めて2敗してしまい、本当に悔しい思いをしました。そこで、「何かを変えなければ」と思ったんです。そんな時、1冊の本と出合いました。それがノーラン・ライアンさんの『ピッチャーズ・バイブル』でした。読んでいくうちに、同じフォームを試してみようというチャレンジ精神が芽生えてきました。秋のリーグまでにはまだ十分時間がありましたから、「今しかない」と思って、取り組み始めたんです。

―― 大幅にフォームを修正することに不安は?
小川: 左足を高く上げても、体のバランスを崩さないだけの下半身の強さはあるという自信はありましたし、ノーラン・ライアンさんは世界に名を残した名投手ですから、「この人が言うことなら間違いない」と思っていたので、不安はありませんでした。

―― 印象的だった本のフレーズは?
小川: 「私が指導者になったら、足はなるべく高く上げさせる」というような意味のことが書かれてありました。その理由は、足を上げることによって、リリースポイントが高くなり、バッターにとってボールの出どころが見にくくなると。なるほどな、と思いましたね。

―― 実際にやってみて、一番の難しさはどこだったのか?
小川: バランスのポイントをつかむのが難しかったですね。足を上げる時に、あまりにも勢いよく上げると、体勢が崩れてしまうんです。言葉で言うのは難しいのですが、「バンッ」と上げるのではなく、「スッ」という感じで上げるんです。この感覚をつかむために、何度も繰り返し練習しました。

―― ノーラン・ライアンとの違いは?
小川: 左足を上げた時に、ノーラン・ライアンさんはしていないのですが、僕は右足のかかとを少し上げているんです。少しでも高く上げようという意識があるのと、そうすることによって、力まずに腕を振ることができるんです。以前よりもコントロール力も上がったと思います。

 2度の転機で続いた野球人生

 小学3年から野球を始めた小川にとって、転機は2度あった。小学生の時と高校の時だ。野球を辞めそうになった時期を乗り越え、そしてある人との出会いによって、小川のその後の野球人生がある。

―― 野球を始めたきっかけは?
小川: 小学3年の時に、学校で少年野球チームの応募のチラシが配られたんです。それで、友だちと一緒に「やろうか」と。それまでは野球らしい野球はほとんどしていませんでした。ただ、幼稚園の頃から興味はあって、その頃から将来の夢は「プロ野球選手」だったんです。

―― 実際にやってみて、どうだったか?
小川: たとえ個人個人の力はなくても、みんなで団結すれば勝つことができる。最後まで何があるかわからないというところが、面白いなと思いましたね。ただ、小学6年の時は辞めたいと思っていました。というのも、当時の監督が、自分たちの学年に大きな期待を寄せていて、それだけに練習がすごく厳しかったんです。火曜から金曜が練習で、土日は試合だったのですが、途中からは月曜にも練習するようになりました。その時は監督の気持ちは全くわかりませんでしたから、「なんで、こんなに厳しいんだろう」としか思っていませんでした。それで、わざと吐いたりして「体調不良」という理由でズル休みをするようになったんです。そしたら、監督からわざわざ自宅に電話がかかってきました。「泰弘くんがいないとダメなんです」と。その言葉を聞いて、また練習に行くようになりました。この時以上に辛いと思ったことは、それ以降はありませんでしたね。でも、そこで基礎をつくれたからこそ、中学、高校でもやっていけたのだと思います。

―― 転機となった出来事は?
小川: 高校の時に出会った人からの指導を受けるようになったことです。ある日、トレーニングで学校の周りを走っていたら、いきなり車から声をかけられたんです。最初は「何だろう、この人は?」と思ったのですが、話を聞いてみたら明徳義塾高でキャッチャーをやっていた人らしく、「このままやっていたら、ケガをするよ」と言われたんです。高校にはピッチングコーチがいなかったので、僕自身、何か確信できるものが欲しいと思っていました。それで、その人から指導してもらうようになったんです。

―― 修正した点は?
小川: それまでの投げ方は横回転で、少しヒジの位置が低く、ヒジに負担がかかっていました。それで縦回転にして、腰の動き方から変えていきました。体の使い方が縦回転になったことで、ボールもホップするような感じになったんです。最も効果が出始めたのは、大学1年の時。走り込みで体が大きくなったこともあって、高校時代は最速138キロ、常時130キロ中盤だったのが、秋の明治神宮大会で、いきなり最速147キロが出たんです。常時140キロ近くのボールを投げられるようになっていましたね。

 “無失点”への強いこだわり

 ものごころついた時から思い描いていたプロ野球選手への扉を開いた小川。身長171センチとプロとしては小柄だが、気持ちの面では決して誰にも負けない自信がある。球団からも即戦力として期待されていることは「2位」という高順位からも容易に想像できる。いよいよプロの世界へと身を投じる小川に、意気込みを訊いた。

―― ヤクルトという球団のイメージは?
小川: 2年連続でAクラス入りし、クライマックスシリーズにも出場していますし、優勝まであと一歩というところまできている。上向き状態のチームだと思いますね。また、スカウトの方や先輩から「すごくアットホームで、雰囲気がいい」と聞いています。

―― 小川淳司監督へのイメージは?
小川: ピッチャーの交代の仕方なんかを見ていると、決して無茶な使い方をしていません。選手のことをきちんと考えてくださる監督なんじゃないかなと思っています。

―― 球団から評価された点は?
小川: 自分の一番の持ち味であるインコースを突く強気なピッチングと、失点が少ない点を評価されたと思っています。

―― プロに入ってからの課題は?
小川: スピードはそれほど速くはありませんから、一球一球の精度を上げていくことです。特にコントロールには気をつけたいですね。ほんの少し高くなっただけでも、プロのバッターは長打にしてしまうと思いますので、コーナーを突くことと低めに強いボールを投げることを意識したいと思っています。

―― ピッチングのこだわりは?
小川: 特に三振を多く奪いたいとか、「こういうふうに打ち取りたい」というこだわりはありません。ただ、とにかくゼロで抑えること。打たれても打たれても、なんとか粘って、ゼロに抑えれば負けることはありませんから、常に無失点を目指して投げています。

 好きな言葉は「感謝」という小川。ピンチの時には、監督やコーチ、家族など、これまでお世話になった人たちのことを思い浮かべ、その人たちに感謝の気持ちをこめて投げるのだ。こうした大学時代に培った人間性は、厳しいプロの世界においても役立つことだろう。「和製ノーライン・ライアン」のピッチングを一軍のマウンドで見れる日もそう遠くはないはずだ。

小川泰弘(おがわ・やすひろ)
1990年5月16日、愛知県生まれ。小学3年で野球を始め、中学時代には県大会3位。成章高では2年秋からエースとなり、3年時には21世紀枠でセンバツに出場し、初戦突破を果たす。創価大では1年秋からリーグ戦に登板し、通算成績は46試合に投げて36勝3敗、318奪三振、防御率0.60。MVPに5度、最優秀投手に4度、ベストナイン5度獲得。171センチ、79キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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