遅咲きも遅咲きである。青山誠がプロに注目され始めたのは、なんと今年に入ってからだ。3年までは鳴かず飛ばずだった青山だが、最終学年となった今春、レギュラーをつかみ、初めて規定打席に到達した。そして秋、不動のリードオフマンとしてブレイク。13試合で15安打を放ち、リーグ最多の13四死球をマークして4割台後半の出塁率を誇った。打率も自己最高の3割1分9厘と、チームに大きく貢献した。1度は野球を諦め、就職を考えたこともあったという青山に、今年の活躍について訊いた。
―― ドラフト会議で指名された瞬間は、どんな気持ちでしたか?
青山: マネージャー室でマネージャーたちと一緒にインターネットで指名された名前を見ていたのですが、更新ボタンを押した瞬間に、僕の名前があったので、全員で喜びました。その光景は今でもはっきりと覚えています。

―― ジャイアンツという球団にはどんなイメージをもっていましたか?
青山: 実は子どもの頃からファンだったんです。僕は関西出身なのですが、父親が大の巨人ファンということもあって、甲子園に行っても、ジャイアンツ側に座っていました。ジャイアンツは「巨人軍」と12球団で唯一「軍」がつく。それだけで伝統を感じますよね。

―― お父さんも喜んだのでは?
青山: 僕の前ではそういうそぶりを見せないのですが、姉が言うには僕がドラフトに指名されてから、何日も眠れなかったそうなんです。それくらい喜んでくれたんだと思うと、やっぱり嬉しいですね。

―― 「育成」ということについては?
青山: 入ってからが勝負だと思っていますので、特に不安な気持ちはありません。それに、日大の仲村恒一監督が「オマエなら育成でも大丈夫だ」と言ってくれたんです。多分、育成からでも這い上がっていくだけの力があると見てくれているのかなと。その言葉は自信にもなっています。友人にも「オマエ、這い上がるのは得意だからな」と言われましたし(笑)。それに、実は1度は大学卒業後は野球の道を諦めようと思っていたくらいですから、育成でも何でもチャンスを与えてもらったわけですから、「よし、これからだ」と前向きな気持ちでいますね。

―― 「野球の道を諦めようとした」のはいつ頃?
青山: 今年春のリーグ戦が終わった時です。社会人に行くにしても、だいたい春くらいで決まっているものなのですが、僕には1社からも声がかかっていない状態だったんです。だから卒業後は就職しようと、練習の傍ら、公務員の勉強を始めたんです。

―― 勉強はずっと続けていたんですか?
青山: いえ、夏のオープン戦が始まる前にはやめました。というのも、最初は野球と勉強を両立させようと思っていたのですが、そのうちにどちらも中途半端になってしまったんです。それで監督さんと両親に相談をして、とにかく最後の秋、野球1本で頑張ろうと考えたんです。

―― そうして臨んだ秋は、好成績を残しました。
青山: 本当に最後の最後になんとか、という感じでしたね(笑)。

 リードオフマンの役割

 身長183センチ、体重81キロと体格に恵まれている青山は、高校時代まではほとんど中軸を打っていた。だが、大学でブレイクした今年、任された打順は1番。果たして、どう対応したのか。

―― 今年は春から1番打者に抜擢されました。
青山: 正直、驚きましたね。なぜ僕を1番にしたのかわかりませんでしたが、「1番ということは、やっぱり出塁率を上げないといけないな」と思いました。

―― 初めての1番打者。中軸を打っていたそれまでとは考え方も変えたのでは?
青山: はい、そうですね。クリーンアップは、ヒットを打つというのが一番の仕事ですが、1番はとにかく出塁することが仕事になります。特に初回、チームで一番最初に打席に立つわけですから、そこでいきなり1番打者が簡単に凡退したら、チームの士気が下がってしまう。そうならないようにしようと心掛けながら打席に立ちましたね。

―― 春は打率1割9分4厘に終わりました。その要因は何だと思われますか?
青山: もともとポイントが(身体に)近いフォームなのですが、そのポイントが前になってしまっていたんです。最近は小さく曲がるボールが多いのですが、ポイントが前だと、そういうボールに対応しきれず、「捉えた」と思っても、ゴロになってしまったりすることが多かったですね。序盤でつまづいてしまって、そのままズルズルいってしまいました。

―― 一転、秋は打率3割1分9厘と自己最高の打率をマークしました。
青山: ポイントを(身体の)近くに戻したことが一番大きいと思います。春は打ち気にはやって、前の左足に重心が乗ってしまい、上半身と下半身が一緒に打ちにいってしまっていたんです。そうではなく、後ろの右足の内腿にグッと力を入れて、下半身は打ちにいくんですけど、上半身は我慢して残す。そうすると、ひねりが出て、バットも遅れて出てくるので、しなりも出てくる。さらに最後までボールを見ることができるので、ボール球に対してバットが止まるようになったんです。

―― それがリーグ最多の13四死球につながったと。
青山: そうですね。2ストライクに追い込まれても、そこから粘ることができました。だんだんと四球をとることが楽しくなっていきましたね。ピッチャーが嫌がっているのがわかるんです。一番嬉しいのはピッチャーが「えっ!? そこ見逃すか?」って顔をした時。心の中で「よっしゃぁ」と叫んでいました(笑)。

 最後のチャンス、磨いた人間性

 2年春まではリーグ戦出場なし。ようやく2年秋から試合には出場するものの、レギュラーには程遠かった。そんな青山がなぜ、4年でブレイクしたのか。そこには不要なプライドを捨て、周囲への態度を改めた青山がいた。

―― 最後のシーズンに活躍した要因は何でしょう?
青山: おそらく人間性だと思います。特に監督さんに対して、3年までと今とでは全然違いますね。僕はもともと我が強い人間で、3年までは自信のあるバッティングさえ磨けばいいと思っていました。でも、監督さんにはいつも「守備を鍛えろ」と言われていたんです。今考えると、「守備のことを言われるということは、バッティングは認められているんだな。ということは守備を鍛えたら、試合に出られるんだな」と考えれば良かったのですが、当時は「うるさいな。守備の分はバッティングでなんぼでもカバーできるんや」としか思えなかったんです。

―― その考えが変わったきっかけは?
青山: 特別何があったというわけではないんです。3年秋のシーズンが終わって、結局何も残せていなかった。それで「このままじゃ、あかんなぁ」と思ったんです。それで、監督さんに対しても変えていこうと。それまではほとんど相談をしにいったことはなかったのですが、自分から積極的にコミュニケーションをとるようにしました。それと、自主練のメニューも替えました。それまでは全体練習後、自主練の時間になると、すぐにバッティング練習に入っていたのですが、まずは守備練習をするようにしました。ほとんどの選手がフリーバッティングをするので外野に行って、その打球を受けるようにしたんです。

―― 考え方ひとつで、野球への取り組みも変わったことがレギュラーをつかんだ要因になった。
青山: そうだったと思いますね。3年まではあまりにも子どもだったなと。今年1年間で、少しは視野が広がって大人になれたかなと思います。それがプロへの道にもつながったのだと思います。

 高校時代、グラブに刺繍で入れていたのは「苦闘こそ己の自信に」という言葉。偶然、雑誌で目にしたこの言葉が青山を支えてきた。高校時代もレギュラーをつかんだのは3年の春と、自らの力で最後に勝ち取る野球人生を歩んできた青山。プロの世界でも最後には“勝者”となり、目指すはジャイアンツの看板選手だ。

青山誠(あおやま・まこと)
1991年11月1日、兵庫県生まれ。育英高校3年夏は3番を担い、県大会準優勝に貢献した。日本大学では2年秋から主に代打や指名打者としてリーグ戦に出場。4年時には1番打者としてレギュラーをつかむと、秋は13試合で15安打を放ち、自己最高の打率3割1分9厘をマーク。四死球もリーグ最多の13を記録した。185センチ、81キロ。右投右打。

(聞き手・斎藤寿子)

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