1980年代から90年代にかけての西武黄金時代、辻発彦はチームに欠かせない存在だった。内野の要として、打線のつなぎ役として、いぶし銀の働きをみせ、9度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献した。ヤクルトに移籍後もベテランとして97年の日本一を経験している。指導者としても中日で5年間、2軍監督やコーチとして落合ドラゴンズを支えた。勝てる組織の中で役割を果たしてきた男が考える強いチームの条件を二宮清純が訊いた。
(写真:二塁手としては歴代最多の8度のゴールデングラブ賞に輝いた)
二宮: 辻さんは現役時代にリーグ優勝10回、日本一も7回経験しています。引退後も中日で2軍監督として2度ファーム日本一となり、1軍のコーチでも2010年、11年の連覇に尽力しました。こうすれば勝てるというメソッドが自然と植え付けられているのではないでしょうか。
: 最初の球団が西武で正解でしたよ。当時の西武はリーグ優勝では誰も満足していませんでしたから。日本シリーズで負けたらガックリきて、いいオフが迎えられない。そういうチームで野球ができたのは、自分にとってはありがたかったと感じています。もし他のBクラスチームに入っていたら、今の僕はなかったでしょうね。

二宮: 西武入団時の監督は広岡達朗さん。野球に対して厳しい方でした。どんな点を学びましたか。
: 僕は広岡さんの下で野球がやりたくてアマチュアの時から西武志望でした。守備についてはボロクロに言われましたけど(苦笑)、広岡さんも、その後の森(祇晶)さんも、きちんとした必勝法を踏まえた上でチームづくりをしていましたね。

二宮: その必勝法とは?
: ホームランを打てる秋山幸二や清原和博といった3、4、5番のクリーンアップにいかに走者を置いた状態で回すか。だから、僕や平野(謙)さん、伊東(勤)といった周囲を打つ選手は、いかにその状況をつくるかを考える。たとえば1死二塁なら一、二塁間を狙って、できればライト前ヒット、最悪でも内野ゴロで2死三塁のケースをつくる。そういう意味では西武は最強の“アマチュア野球”をやっていたとも言えますね。個人成績ではなく、目の前の試合に勝つことが最優先。いかにチームのために打ち、走り、守るかを考えていたように思います。

二宮: 野球は、相手より1点でも多く得点し、1点でも失点を少なくするかが問われる競技です。守備に関しても細かかったでしょう?
: 中継プレーひとつとっても口うるさかったですよ。外野からカットマンに返すプレーは毎日、確認していました。外野手が肩の調子が悪ければ事前に話をしておいて、打球が飛んだら、いつもより近くまで寄っていく。送球だってシュート回転しますから、右投げだったら(カットマンから見て)左へ、左投げだったら右へ曲がる可能性が高い。だから一直線の位置に行くのではなく、右投げだったら、ちょっと「くの字」になるところに入るし、左投げなら「逆くの字」に入る。そうすると自分の体の前でカットして、すぐ送球に移れるんです。そこまで考えたフォーメーションを繰り返し練習していました。

二宮: そういったフォーメーションは虎の巻のように体系化されていたのでしょうか。
: 西武時代は紙にまとまっていたわけではないですが、中日では落合(博満)監督からの指示で図にしました。ランナー一塁で、左中間に打球が抜けたら、どう動くか。それぞれのケースでコーチの川相(昌弘)や奈良原(浩)と議論しながらつくっていきましたね。

二宮: なるほど。守りの野球を展開した中日が強かった要因がここにもあったわけですね。
: 落合さんはピッチャーに関して森繁和コーチに任せて一切口出ししませんでしたからね。森繁さんが「浅尾で行きます」と言ったら、浅尾に交代。落合さんが球審に告げようとベンチを出る際に、「浅尾でいいんだな。浅尾で」と森繁さんに確認をしていたくらいです(笑)。森繁さんも、「どっちにしますか」と落合さんにお伺いは立てないので、どちらが監督か分からなかったですよ(苦笑)。

二宮: 攻撃面ではどうでしたか。
: 攻撃のサインはほとんどなく、基本は選手のやりやすいようにやらせていました。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけ、という考え方で、「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とまで言っていました。僕は西武時代から、とにかく1球でも投げさせて粘るのが当たり前だと思ってきましたから、特に1、2番の荒木(雅博)と井端(弘和)が簡単に打ってアウトになるのは違和感がありましたね。

二宮: ヤクルトでは野村克也監督のID野球にも触れました。
: 野村さんは技術面の話はほとんどしません。狙い球の絞り方や、カウントに応じた対処法といった頭を使う部分を徹底的にミーティングで伝えていきます。個人的には、そこまで考えながら打席に入ると余計に分からなくなる。正直に野村さんに話したら、「オマエには必要ないわ。基本は真っすぐ待ちで対応できるからな」と言われましたね(笑)。
(写真:グラブにもこだわりがあり、小指の部分を広げるための独特な紐の通し方は“辻とじ”と命名されている)

二宮: 西武、ヤクルト、中日と優勝するチームに身を置いてみて、勝つ組織の共通項は何だと思いますか。
: 弱いチームの選手はミスをしたり、負けても「明日がある」「次がある」という発想なんです。言葉に出さずとも、そういうのが態度に出る。でも西武の時は「明日」や「次」という考え方はなかったですよ。それだけ監督、コーチが厳しかったし、選手同士にも緊張感があった。チームカラーは違えど、ヤクルトも似たところがありましたね。

二宮: 今のパ・リーグを見ると千葉ロッテ・伊東監督、西武・渡辺久信監督、福岡ソフトバンク・秋山監督と、西武黄金期を担った選手たちが各チームを率いて結果を残しています。辻さんも、いずれは監督を?
: いやぁ、監督なんて大変ですよ。僕はやりたいとは思わないですね。皆、よくやっているなと感心しますよ。ただ、2軍の指導者には興味があります。一緒にやっていて選手の成長が分かるし、彼らを教えることで、自分にも新たな発見がある。可能性を秘めている伸び盛りの若手と汗を流せるような場所で、またユニホームを着てみたいという思いはあります。

<現在発売中の『小説宝石』2013年6月号(光文社)ではさらに詳しい辻さんのインタビュー記事が掲載されています。こちらも併せてご覧ください>