榎本達也(FC東京アカデミーコーチ/ブラインドサッカー日本代表/元徳島ヴォルティス)第2回「人生の分岐点は中学時代」
東京都練馬区生まれの榎本達也だが、「東京で生まれた記憶がないくらい」すぐに埼玉県蕨市へと引っ越した。少年時代は友人とボールを蹴ったり、野球をしたりと常に外で遊んでいた。活発だった榎本がサッカー少年団に入るのには、そう時間はかからなかった。
(2017年10月の原稿を再掲載しております)
榎本には年子の兄がいる。兄は2年生になると蕨北町サッカースポーツ少年団に入った。この少年団の入団条件は小学2年生以上。ところが、榎本は1年生の時にこの少年団の門を叩く。入団経緯を榎本は懐かしそうに説明した。
「兄貴が練習しているグラウンドに、1年生の僕も両親に連れられていました。砂場で遊んでいたり、遊びでボールを蹴っていた。そうしたらコーチの人に“やってみるか?”と声をかけられたんです。それから少年団の入団条件が“1年生から”に変更になりました」
こうして榎本は蕨北町サッカースポーツ少年団の1年生第1号となった。だが、すぐに人数は集まらなかった。2年生の時でも3~5人程度。当時の小学校のサッカークラブに8人制サッカーはない。「当時は全く気にしていなかったですが、今思えば大変ですよね(笑)」と榎本。少人数でもボールに触れられれば楽しかったのだろう。
プロとして、横浜マリノスやヴィッセル神戸などJ1クラブでも正GKを務めた榎本だが、最初からゴールマウスを任されていたわけではなかった。GKを始めたのは「3年生あたりから」だと言う。それも専任というわけではない。彼は小学校卒業時で身長152センチと大柄な方ではなかった。GKを選んだのは、榎本自身だった。
「当時、今ほどGKはメジャーなポジションではなく、やりたがる人が少なかった。“試合に出られるなら”と思って自分で手を挙げたんです」
サッカーか、音楽かの迷い
少年団ですくすくと育った榎本は地元の蕨市立第二中学校に進学。ここで彼は部活の選択で悩む。サッカー部と天秤にかけていたのは吹奏楽部。榎本は音楽にも興味があったのだ。仮入部期間は迷うあまり、どちらの門も叩けず学校と家の往復だった。頭を悩ませる日々が続いた。その間に時間はどんどん過ぎていく。
仮入部期間終了間際、榎本は「今日もどっちつかずで決められない……。もう家に帰ろう」とトボトボと歩を進めた。
その時だった。
「そうだ、キャプテン。コイツ、GKなんですよ」
声の主は小学校時代、別のサッカー少年団に属していた同い年の知人だった。
榎本はこう述懐する。
「小学校時代は違うチームだった同級生が、当時のサッカー部のキャプテンに僕を紹介したんです。キャプテンはGKだった。するとキャプテンは“おお、そうか!(サッカー部に)来い来い!”と言ってくれた。
昔の中学1年生と3年生の関係だと、先輩の言うことに対して“はい”と言うしかなかった。仮入部期間はほぼ終わっていました。だからそのまま正式入部してしまったんです。ここでサッカー部を選んでなかったら、絶対サッカー選手にはなっていないと思います。葉加瀬太郎さんみたいにはなれたかもしれないですけれど(笑)。振り返ると、ここが人生の分岐点だったかもしれないですね」
1年生の頃は球拾いや声出しも経験した。すると2年生の時に突然チャンスが巡ってきた。榎本の1つ上の学年は春に県大会まで勝ち上がった。正GKは先輩が務めていた。だが、試合当日の朝に足を痛めてしまった。その代役に「オマエが出ろ」と榎本が指名を受けた。この試合以降、Aチームでの出場機会も増えていった。
中学の3年間で身長は約30センチも伸びた。180センチを超え、GKとして理想的な体に成長した榎本は埼玉県内の強豪・浦和学院高校へと進学する。彼はここで徐々にプロの世界を意識し始める――。
(第3回につづく)
<榎本達也(えのもと・たつや)プロフィール>
1979年3月16日、東京都練馬区生まれ、埼玉県蕨市育ち。1歳年上の兄の影響でサッカーを始める。浦和学院高校卒業後、1997年に横浜マリノス(当時)に加入。98年にはU-19日本代表としてAFCユース選手権で準優勝を経験した。2002年には正GKとしてリーグ完全優勝を果たす。2007年以降はヴィッセル神戸、徳島ヴォルティス、栃木SC、FC東京でプレーし、16年シーズンで現役を引退。今年からFC東京アカデミーコーチを務めるとともに、ブラインドサッカー日本代表強化選手に選出された。Jリーグ通算290試合出場。身長190センチ、体重82キロ。
(文・写真/大木雄貴)