視覚障害者柔道男子90キロ級の初瀬勇輔選手は2008年北京パラリンピックに出場している。だが90キロ級の出場枠が確保されないなど不運も重なり2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロは逃した。今の目標は3年後の東京パラリンピック出場だ。彼には2つの顔がある。柔道家でもあり、実業家でもあるのだ。株式会社ユニバーサルスタイルの代表取締役を務め、障害者雇用事業に取り組んでいる。初瀬選手が見据える共生社会のあるべき姿とは――。

 

伊藤数子: 今回のゲストは視覚障害者柔道北京パラリンピック日本代表の初瀬勇輔選手です。
初瀬勇輔: どうぞよろしくお願いいたします。

 

二宮: 早速ですが、初瀬選手はいつから柔道を?
初瀬: 中学校に入ってからです。この頃は視力を失う前で、小学校では空手を習っていました。ただ進学した中学には空手部がなかった。黒帯に対する憧れと、強くなりたいと思いがあって柔道を始めました。高校卒業までの6年間で、県大会3位が最高で全国大会には行けませんでした。僕の同学年には棟田康幸さん、鈴木桂治さんたちがいました。僕らの世代(1980年4月生まれから1981年3月生まれ)は野球の松坂世代と呼ばれていましたが、柔道もすごいメンバーが揃っていました。

 

二宮: 棟田さんは世界選手権で2度優勝、鈴木さんは2004年アテネ五輪の金メダリストです。確かにすごい世代ですね。そう言えば、初瀬選手は棟田さんに似ていますね。
初瀬: よく言われます(笑)。ただ棟田さんは100キロ超級の選手で、僕は3階級下の81キロ級だったので、一回り、二回り小さくした感じですが(笑)。彼らは僕にとっては憧れのような存在で、その人たちといつか直接戦ってみて自分の力を試したいと思っていました。結局、それはかなわず高校までで柔道から離れました。

 

 目が覚めた母の言葉

 

二宮: 柔道を一区切りされた後は、法曹界を目指されたと伺いました。
初瀬: この時は漠然と法律の仕事をしたいと思っていました。東京大学法学部を目指していましたが、なかなか合格できず3浪しました。その浪人中の1年目に右目が緑内障にかかったんです。手術をしたものの、それは完治をさせるためではなく症状の進行を止めるためのものでした。しかし、視神経を痛めてしまって、右目はほとんど見えなくなってしまいました。

 

二宮: それはショックも大きかったでしょう。
初瀬: それでもまだ左目は問題なく、普通に生活もできていたので楽観視していました。ところが中央大学法学部に進学して2年時の終わり頃に今度は左目の調子が悪くなったんです。病院に行って再び緑内障と診断され手術をしました。手術には成功しましたが、左目も視神経を痛めてしまった。ただ手術したばかりのころは目が見えなくなるなんて、全く考えもしませんでした。手術から3日ぐらい経った後に眼帯を外した時は見えなくても"手術直後だからか"と受け止めていたのですが、10日経っても状況は変わらない。そこで"このまま視力が戻ることはない"と気付き、すごく落ち込みました。"生きている意味があるのか"とさえ考えたこともあります。

 

伊藤: 支えになったのはご家族ですか?
初瀬: はい。当時は人生を投げ出したくなるほど悩みました。でもある日、僕が「死にたい」と漏らした時に母から「死んでもいいよ。その代わり私も死ぬから」と言われて、目が覚めたんです。そんな親不孝なことをしてはいけない、と。あとは友人の支えも大きかったですね。入院中はある友人がほぼ1カ月間、毎日お見舞いに来てくれました。入院中は本を読むことも、テレビを見ることもできなかったので彼との他愛もない会話に救われました。

 

二宮: まさに「雨天の友」ですね。
初瀬: その友人は障害者手帳の申請に行く時も付いてきてくれました。退院の日も、1人では外を歩けないので付き添ってくれた。友人にはとても感謝しています。

 

 再び柔道を始めたきっかけ

 

伊藤: その後、大学には復学されたのでしょうか?
初瀬: はい。中央大学にもすごくお世話になりました。僕のように入学後に障害を持つケースは珍しかったんです。大学の事務局に相談すると「他の大学でも初瀬くんのような事例はなかった。だから中大でいい例をつくりましょう」と、いろいろ尽力してくれました。

 

二宮: それは有り難いですね。とはいえ通学も大変だったでしょう。
初瀬: 大学ではお見舞いに来てくれた友人とは別の友人が助けてくれました。卒業までの約2年間、毎日送り迎えをしてくれたんです。僕にとっては目が悪くなった後に、助けてくれる友人がいたということが何よりの財産ですね。

 

伊藤: 柔道を再び始めたきっかけは?
初瀬: 母や友人たちに支えてもらって、手術から1年半が経つ頃には自分でもいろいろと行動できるようになっていました。4年生の夏には大学卒業を見込める状態になっていました。しかし、ふと周りを見渡すと、皆の進路が決まっている中で、僕は先のことが何も決まっていなかったんです。正直何をしたらいいか、わからない状況でした。その時、付き合っていた女性に「柔道やってみたら?」と言われて始めたんです。

 

伊藤: お母さんやご友人ではなかったんですね。
初瀬: 母は「それを言ったのは私だからね」と話していますが、僕はあまり覚えていないんです(笑)。ただ、自分で何かをやってみたいと思って行動したのは、目が悪くなってから初めてのことでした。

 

(第2回につづく)

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初瀬勇輔(はつせ・ゆうすけ)プロフィール>
1980年11月28日、長崎県生まれ。法律家を目指していたが、中央大学在学中に緑内障により視覚障害を持つ。2005年、中学・高校で柔道に打ち込んでいたこともあり、視覚障害者柔道を始める。その年の全日本視覚障害者柔道大会男子90キロ級で優勝。同級で2008年北京パラリンピック出場を果たす。2010年には広州アジアパラ競技大会で金メダルを獲得した。2011年に独立、株式会社ユニバーサルスタイルを設立した。現役を続けながら、日本パラリンピアンズ協会、日本視覚障害者柔道連盟、全日本パラテコンドー協会の理事も務める。株式会社ユニバーサルスタイル代表取締役。


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