高校2年の秋、板東湧梧は徳島県立鳴門高校のエースとなった。当時の鳴門高は新キャプテンの河野祐斗、キャッチャーの日下大輝など春夏の甲子園を経験した選手が残っており、打線における戦力ダウンは小さいと見られていた。その一方で板東をはじめとした投手陣には不安があった。それは彼自身も強く感じていたことだった。

 

「ピッチャーがいなくて監督が消去法で自分を仕方がなくエースにしたという感じです」

 板東がそう思う一方で、森脇稔監督は違う見方だった。

「それは謙遜していると思いますよ。僕の中では板東しかいないという気持ちはありました」

 

 新チームで臨んだ秋季大会。背番号1を付けた板東がほぼ1人で投げ抜いた。3季連続甲子園出場を目指す鳴門高は県大会初戦(2回戦)で板野に3失点、準々決勝の川島戦と準決勝の生光学園戦では、いずれも5失点。3試合連続で2ケタ得点を挙げた打線とは対照的に失点は少なくなかった。決勝の徳島商戦でも5失点。板東も全4試合に登板し、10失点だった。

 

 四国大会に入っても鳴門高の“打高投低”は変わらない。板東は松山星稜、済美といずれも愛媛県の強豪相手に4失点を喫した。選抜高等学校野球大会(センバツ)出場がかかった済美との試合では9回裏まで1対4のビハインド。土壇場でひっくり返しての逆転勝ちだ。周囲が喜びに沸く中、板東は1人悔し涙を流した。「あの時の気持ちは忘れない」。決勝の高知戦は8失点で完投負け。板東にとっては屈辱の秋だった。

 

 結局、板東の秋季大会の通算成績は7試合53回1/3を投げ、29失点、防御率は4.73。

「“アイツのせいで負けるんじゃないか”。誰かにそう言われたわけではないのですが、自分の中では感じていました」

 

“このまま甲子園に行くのは嫌だ”。冬場、板東の練習には例年以上に熱がこもった。森脇監督からは「オマエは体力を付け、身体を大きくして筋力をつけることが課題だ」と指摘を受けた。走り込みの練習も「とにかく質を高めました」と常に先頭を走ることを意識した。板東本人は「質」を強調していたが、「量」もこなした。女房役の日下からは「1人でひたすらやっている感じもありました」と黙々と練習する姿を目撃されている。加えて板東はウエイトトレーニングや食事にも気を遣った。その成果もあって、体重は増え、球速も伸びた。

 

 自らを追い込み、トレーニングに臨む姿はエースの自覚の表れと言ってもいい。森脇監督も評価したところだ。

「取り組みが変わり、成長しましたね。彼の長所はランニングを苦にせず、それによる故障も少なかったこと。筋肉の質が良いのだと思います。よく比較するのは教え子の潮崎哲也(元西武ライオンズ)です。走るのが速くて、身体がしっかりしているという点ではよく似ていますね」

 

 迎えたセンバツで板東は「“今までの自分とは違う”という自信があり、楽しく投げられました」と振り返るように、のびのびと投げた。初戦(2回戦)の宇都宮商(栃木)で1失点完投勝利。3回戦、聖光学院(福島)には3-4で惜敗したものの、粘りのピッチングを見せた。

 

 ケガを乗り越え成長

 

「自分の中で“順調にきている”という思いがあり、地区予選で“板東包囲網”と新聞に書かれるくらいマークされるようにもなりました」

 板東は他校に警戒されるほどのエースに成長していた。

 

 ところが、全国高等学校野球選手権徳島県予選を前に板東の右肩が悲鳴を上げた。当時の鳴門高に彼に代わるピッチャーはいない。マウンドには背番号1が上がらざるを得なかった。

「地区予選はボコボコで、でもピッチャーは僕しかいないという状況でめちゃめちゃ苦しかった。でもその時はネガティブな感情よりも、“メンバーみんなが打ってくれる”との信頼感がありました」

 

 本調子ではない中で、板東はバックを信じ、1人で投げ抜いた。鳴門高は2回戦の富岡西は6-2で初戦を突破。準々決勝の徳島科学技術高は7-4、準決勝の鳴門渦潮は8-7、決勝の川島は9-4で夏の県大会を2連覇。力投するエースに打線が援護し、4季連続の甲子園出場を決めた。

 

 再び聖地のマウンドに立つこととなった板東。とはいえ、肩の痛みが消え去ったわけではない。「ずっと痛くて、痛み止めの薬も飲みながらやっていました」。だが県大会とは彼の右肩にのしかかる重みが違った。「まず甲子園に行けたことにホッとして、そこからはもう何も考えずに“ただ野球を楽しもう”と。県予選で投げる時よりも割り切っていた部分もあり、気持ち良く投げられました。“1戦1戦楽しもう”と思えましたし、“勝たなければいけない”という気負いもなく、純粋に甲子園を楽しんだ感じでしたね」

 

 初戦で星稜(石川)に12-5で勝利すると、2回戦では修徳(東東京)に6-5で延長10回サヨナラ勝ち。板東はいずれも130球を超える粘りのピッチングで完投した。3回戦の常葉学園菊川(静岡)戦では、この頃から武器となっていたカーブの威力も冴え、打者に的を絞らせず6回1死までノーヒットに抑える好投。17得点と爆発した打線にリズムをつくった。板東は4安打1失点完投で、鳴門高を1950年大会以来のベスト8進出に導いた。

 

 4試合565球の力投

 

「甲子園では力以上のものが出せました」と板東自身は振り返る。力以上というよりは、聖地の空気感が彼の潜在能力を引き出し、大きく成長させたのだろう。ベスト4をかけた花巻東(岩手)との準々決勝。花巻東にはのちに北海道日本ハムファイターズ入りを果たす岸里亮佑、“カット打法”で注目を集めた千葉翔太を擁していた。特に身長156cmと小柄でミート力のある千葉には各投手が苦戦。板東も例外ではなかった。

 

 初回1死ランナーなしで、迎えた第1打席。板東は千葉にファウルで粘られ、13球も要し歩かせた。なかなかリズムに乗れぬまま、6回表の第3打席では8球を投じてフォアボール。続く岸里にバックスクリーンに運ばれ、先制2ランを喫した。3-2とチームが逆転して迎えた8回表も先頭の千葉を8球で四球を与えた。

 

 結局、千葉にはこの試合、全5打席で出塁を許した。

「甲子園はずっと暑い試合でした。とにかく粘られ、暑さもあってきつさを感じながら投げていて、フォアボールを4つも出した。だんだん自分にイライラしてきたというのもあります。特に最後の2四球。ファウルされたことではなく、最後にボール球を投げた自分に腹が立ちました」

 

 小兵の曲者に心を揺さぶられた板東もなんとか2アウトを取った。2死二塁、ここを凌げばあと3アウトで勝利は見えてくる。5番バッターへの3球目、打球は一塁線へのゴロ。ファーストも正面に入り、捕球体勢を取っていた。キャッチャーの日下もベンチに戻る準備をしていたほど打ち取った当たりだった。しかし、不運にも打球はファーストベースを直撃し、一塁手の頭を越えていった。同点のランナーが還った。気落ちした板東は連打を浴び、2点を追加された。鳴門高は最終回に1点を返したものの、反撃はそこまで。4-5で敗れ、4強入りは叶わなかった。

 

「正直、“おい!”って気持ちにはなりました。でも、その後に左中間タイムリーを許し、追加点も取られました。9回裏にチームも追いつきかけてもいたので、あそこで粘れなかったのが自分の甘さですし、反省すべき点だなと思います」

 板東は自らを責めたが、指揮官は全4試合565球を投げ抜いたエースをこう称えた。

「最終的には負けましたが、彼はよく投げてくれました。相手のタイムリーがベースに当たったり、こちらのいい当たりはファインプレーで阻まれたりしました。本当に紙一重の差だったと思います」

 

 彼の成長ぶりを感じ取ったのはバッテリーを組む日下も同じだ。

「組んだばかりの頃とは別人のようなピッチングでした。チェンジアップやフォークも覚えていましたし、コントールもミットに構えたところにボールがくる。とてもリードし易かったです」

 甲子園での活躍により、板東湧梧の名は全国区となった。たった1人で投げ抜いた夏のピッチングは正真正銘のエースだった。

 

 高校最後の夏を終え、板東はプロ志望届を提出しなかった。甲子園を沸かせた鳴門高のエースはプロではなく社会人野球の道を選んだからだった。

 

(最終回につづく)

 

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板東湧梧(ばんどう・ゆうご)プロフィール>

1995年12月27日、徳島県鳴門市生まれ。小学2年で野球を始める。板東小、大麻中を経て鳴門高校に進学。2年時のセンバツに野手としてベンチ入り、甲子園の土を踏んだ。2年秋からエースとなり、3年時には春夏の甲子園出場。夏の甲子園では63年ぶりのベスト8進出に貢献した。高校卒業後は社会人野球のJR東日本に入社。MAX145kmのストレート、ブレーキの利いたカーブを武器に打者を打ち取る。身長180cm、体重70kg。背番号13。

 

(文・写真/杉浦泰介、取材/交告承已)

 


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