2014年4月よりJR東日本に入社した板東湧梧。甲子園を沸かせたエースとはいえ、18歳のルーキーが易々と社会人野球の名門で定位置を掴めるほど、この世界は甘くはなかった――。

 

 板東は高3の夏、全国高等学校野球選手権大会前にはJR東日本から誘いを受けていた。県立鳴門高校の森脇稔監督によれば、選抜高等学校野球大会(センバツ)以降、最初に声をかけたのがJR東日本だったという。実は鳴門高の森脇監督とJR東日本の堀井哲也監督には親交があった。共に東京六大学野球出身で同学年。堀井監督は映像で観た板東に目を付けた。森脇監督からは「人間的に間違いないよ」と太鼓判を押され、板東の獲得に迷いはなかった。

 

 一方、板東は入社に迷いがあった。

「社会人野球のことが一切分からなくて、すごいチームだということは聞いていました。逆にそんなチームでやれるのだろうかと思って、断ろうかとも一瞬悩みました。でも、なんだかんだ野球が好きですし、断る理由がなかったので、『はい』と返事をしました」

 

 JR東日本の堀井監督は彼を即戦力としては捉えていなかった。

「すごくキレイなフォームでコントロールも良い。あとは身体づくり。まだ線が細かったので、入社1年目は高校3年生のつもりで育てようと思っていました」

 

 それでも板東が高い潜在能力を見せつけたのは、入社前のアメリカ遠征だ。堀井監督によれば、セントキャサリン大学、サンバーナーディーノ大を相手に堂々たるピッチングを披露したという。

「“彼を獲って良かったな”と。普通18歳だとアメリカ人とやってビビッたりするものだけど、板東は落ち着いていました。“これは甲子園の時の板東だな”と感じましたね」

 

 試行錯誤を経て飛躍

 

 入社1年目は公式戦の登板はなかった。板東は振り返る。

「1年目はもう、1回もまともに野球ができた記憶がありません。入ってすぐにレベルの違いを痛感して、“あぁ無理だろうな”と思いながら過ごしていました。当時は『とにかく身体を作れ』と言われて、ご飯ばかり食べていたイメージです。でも2年目くらいから、自分に力がついてきたのを実感しました。指導を受け、試行錯誤しながら、なんとなく良くなっていっているのがわかってきました。社会人になって、野球への取り組み方が変わったと思います」

 2年目の秋には日本選手権で登板。2回戦の日本生命戦で、社会人として全国大会の舞台を踏んだ。

 

「入ったばかりの頃は自分の考えていた理論と全く違い、真逆のことをやっていると思うくらい衝撃だったのを覚えています」

 高校時代に比べてストレートの球速は上がった。1年目からの身体づくりに加え、フォームも変えた。JR東日本でピッチングのメカニズムを学び、ボールをリリースする瞬間に最大限の力を出すことを覚えた。

 

 そして迎えた入社3年目は飛躍の年だった。エースは1学年下の田嶋大樹だったが、板東は2、3番手としてチームを支えた。3月のJABA東京スポニチ大会では大阪ガス相手に3安打1失点完投勝利を収めた。5月の都市対抗野球大会二次予選では東京ガス・エース山岡泰輔と先発で投げ合った。当時、ドラフト上位指名候補と騒がれていた同学年の右腕に投げ勝ったことで、板東の評価は急上昇した。

「山岡対僕ではありません。単純に東京ガスという強豪と戦って、チームを勝ちに導けたことが自信になりました。山岡に投げ勝って自信を得たということではないです」

 

 7回途中まで2安打無失点。文句の付けようのない出来だった。堀井監督も「山岡が登板しているのにウチは田嶋じゃなくて板東でいった。向こうは“勝てるな”と甘く見たのではないでしょうか。でも僕らは本当に板東で勝てると思っていました。その期待通りに彼はやってくれた」と頬を緩ませる。入社後、板東のベストピッチと言ってもいいかもしれない。

 

 幻のドラフト候補

 

 高卒社会人3年目はちょうどドラフト解禁となる年だ。都市対抗本選では出番がなかったものの、板東がドラフト候補に挙がってもおかしくはない。事実、調査書を提出したプロ球団もある。彼も紛れもないドラフト候補の1人だった。

 

 しかし、秋のプロ野球ドラフト会議では板東の名前は挙がらなかった。なぜなら既に指名される可能性のある球団には断りを入れていたからだ。日本選手権予選前、彼は右ヒジを痛めていた。

「“すぐに治るだろう”と思っていたのですが、ずっと痛みが取れませんでした」

 

 高校時代の恩師・森脇監督に電話で話し、アドバイスをもらった。JR東日本の堀井監督にも「オマエ自身が行きたいならいいけど、ヒジの状態はどうなんだ?」と問われた。熟考した末、この年のプロ入りは断念した。

 

「自分ではそこまで重く考えていなかったんです。今になって行かなくて良かったなと思います」

 9月、10月、11月、12月……。カレンダーをめくってもめくっても快方の兆しはなかった。投げられない日々は半年近く続いたという。

 

 いろいろな治療を試し、最後は手術するという話にもなった。それでも今年5月の都市対抗二次予選で先発登板する機会があった。「その試合はヒジが飛んでもいいくらいの気持ちで投げさせてもらいました」。悲壮な覚悟で臨んだ板東だったが、1回2失点でマウンドを降りた。

 

 すると次の日、不思議なことにヒジの痛みは消えていた。

「そこから無理やり投げたりしていたら、痛い痛くない、痛い痛くないを繰り返していたら治りました。今はピンピンしています」

 

 約半年間の投げられない日々、板東もただ指をくわえて過ごしてわけではない。

「本当に長い期間、何もできませんでした。“とにかくこの期間で何かを身に付けなくては”と思い、そこで野球に対する姿勢が変わったんです。ウエイトトレーニングにも取り組むようになり、それに並行して栄養学も勉強しました。あとは読書も始めました。昔は好きだったテレビをほとんど見なくなったのもこの時期からなんです。とにかく無駄な時間を過ごすのがもったいないなという意識になり、生活もガラリと変わりました」

 

 堀井監督もケガの間の成長を認める。

「身体づくりというのはずっと彼のテーマでした。それでヒジ以外の体幹や下半身はケガをしている期間で強くなったと思います。またケガをして野球ができない間に、身体のケアや管理にものすごく重きを置くようになったんじゃないですかね。今はものすごく彼は詳しいです。同じ22歳の野球選手と比べても、いろいろ栄養やトレーニングについて勉強していますよ」

 

 次期エースの期待と自覚

 

 今シーズン、都市対抗を終えると、板東の登板機会も格段に増えた。エースの田嶋に次ぐ2番手格に成長した。最後の公式戦、JR東日本は日本選手権で初戦敗退に終わった。オリックスバファローズへの入団が決まり、今大会がラスト登板となる田嶋は7回途中4失点。三菱重工広島に1-4で敗れた。板東は9回の1イニングを投げ、無失点に抑えた。

 

 最終回に板東を送ったのは、チームの期待の表れだろう。今年のドラフト会議後、堀井監督は指名されなかった選手たちを呼び、こう檄を飛ばしたという。

「来年、オマエらで優勝するぞ!」

 

 今年限りで田嶋というエースが抜ける。板東の右腕にのしかかるものは大きい。

「彼には来年、完全な軸で投手陣の先頭に立つべきと期待をしています。まぁ誰が見ても、そういう立場にあるんじゃないですか」と堀井監督は言う。入社5年目を迎える板東に向けられる視線も厳しくなる。

 

 板東がJR東日本のエースとなれば、これまで以上に田嶋との比較は避けられないだろう。「ライバルと最初は思っていたのですが、今はライバルというのはまた少し違う」。現状の実力では及ばないと理解しつつも、それで良しとする気はさらさらない。

「田嶋は今までずっと多分良い調子で来ていて、挫折を味わったことがない投手。僕は何度も底を見たというか、苦しい思いを味わってきました。そこでどれだけ野球が大切かと知りました。野球に向かう姿勢や情熱は負けない。今は田嶋の方が上でも“いつか抜いてやる”という気持ちでいます」

 

 板東の理想像は“負けない”ピッチャーである。

「内容は特に意識していないんですが、勝てるピッチャーになりたいです。2013年に24連勝した田中将大投手のように負けないピッチャーです。たとえどれだけ打たれていても、とにかく負けないピッチャーが最強だと。それが理想なんです」

 チームが勝つためならば、マウンドを途中で譲ってもいい。完投に固執はしない。「先発の役割は試合をつくること。そして先制されないこと。先発としての役割を果たせれば代えられてもいいと思っています。とにかく勝つ。そのための役割を果たしたい」

 

 その先には「プロで活躍できる投手」という野望がある。「剛球を投げられる投手ではないので、バシバシ四隅に投げられるようなコントロールの良いピッチャーを目指したいです」。ストレートとカーブの緩急を軸に、多彩な変化球を投げ分ける板東。その上でコントロールが生命線となる。たとえるならば、福岡ソフトバンクホークスの攝津正のようなタイプを目指すことになろう。

 

 来シーズン、板東の不敗神話が始まれば、秋にはプロ入りの報が届くだろう。人生の列車はひとまずプロ野球という駅を目指す。JR東日本のエースとして出発進行。22歳の細身の右腕は加速度上げて、突き進む。

 

(おわり)

 

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板東湧梧(ばんどう・ゆうご)プロフィール>

1995年12月27日、徳島県鳴門市生まれ。小学2年で野球を始める。板東小、大麻中を経て鳴門高校に進学。2年時のセンバツに野手としてベンチ入り、甲子園の土を踏んだ。2年秋からエースとなり、3年時には春夏の甲子園出場。夏の甲子園では63年ぶりのベスト8進出に貢献した。高校卒業後は社会人野球のJR東日本に入社。MAX145kmのストレート、ブレーキの利いたカーブを武器に打者を打ち取る。身長180cm、体重70kg。背番号13。

 

(文・インタビュー写真/杉浦泰介、取材/交告承已)

 

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