今年5月の引退興行で25年のプロレスラー生活にピリオドを打った小橋建太は若手時代、ジャイアント馬場の付き人を務めていた。アントニオ猪木とともに日本のプロレス界を支えた“巨人”から学んだことは、その後、小橋がリング人生を歩む上での指針になった。馬場が亡くなって今年で14年。闘いの舞台を降り、“第二の青春”へ走り始めた小橋に、師匠との思い出を二宮清純が訊いた。
(写真:代名詞のマシンガンチョップはヒジのケガで医者から止められても打ち続けた)
二宮: 馬場さんの付き人になったきっかけは?
小橋: 僕が全日本に入って半年くらい経った1987年の11月のことです。ハル薗田さんが南アフリカに向かう途中、飛行機事故で亡くなられた。マスコミが馬場さんに取材しようと殺到したのですが、当時の付き人の対応が悪かった。それを見た先輩方が「何やっているんだ。付き人、失格だ」と怒って、僕に「今日からオマエやれ」と話が来ました。

二宮: 馬場さんの反応はどうでしたか。
小橋: それが……馬場さんは当時の付き人をかわいがっていましたから、僕のことは全く認めてくれませんでした。「今日から付き人をさせていただきます小橋です」と挨拶に行くと、「誰もオマエを付き人にするとは言っていないぞ!」と叱られましたね。「誰だ? オマエを付き人にすると言ったヤツは!」と聞かれたものの、先輩の名前を出すわけにもいかない。黙っていると「もういい、帰れ!」と……。翌日から毎日、馬場さんのところに行っても、顔を見るなり、「帰れ」「帰れ」の連続でした。

二宮: 付き人の仕事はいろいろあるでしょうが、身の回りの世話以外でどんな役割がありましたか。
小橋: 馬場さんの場合、重要な仕事のひとつはホテルのベッドメイキングです。体が大きくて普通のベッドでは足がはみ出てしまう。だから馬場さんが到着される前にビール瓶のケースを部屋に持ち込んで、ベッドの長さを伸ばすんです。ビール瓶ケースを土台にして、その上に毛布を敷き、ベッドと同じ高さに揃える。それだけだと境目の部分ができてしまうので、シーツをかけてひとつのベッドのようにしていました。

二宮: それだけの大きなベッドをつくるとなると、体が入らない部屋もあるのでは?
小橋: 基本的に馬場さんは小さなホテルには泊らなかったので、その点は大丈夫でした。ベッドが完成したら、まくらを4つセッティングします。頭のところに2つと、左右の手のラインに合わせて左右ひとつずつ置く。それがきちんとできた段階で到着を待つんです。

二宮: 馬場さんには生前、何度も取材しましたが、体は大きくても性格は繊細で几帳面でしたね。
小橋: そうですね。荷物もたくさん持っていくので全部で40キロくらいありました。もちろん、それを運ぶのも仕事です。自分の荷物や他の荷物に馬場さんの分を加えると、めちゃくちゃ重い。最初はローラーつきのバッグで転がして運んでいました。ところが、それを見た先輩に「プロレスラーが、そんな姿じゃカッコ悪い。持ちあげて運べ」と注意されたんです。それから全部持って運ぶようになったのですが、重みにたえられなくてバッグのとっての部分が壊れてしまうほどでした。

二宮: 馬場さんは取材でホテルのラウンジに行くと、好きな葉巻を片手にコーヒーを飲んでいました。ところが、あまりにも手がでかいので、コーヒーカップがミルクピッチャーかと勘違いしたことがありますよ(笑)。
小橋: アハハハ。馬場さんによると葉巻にしたのも体が大きかったせいみたいですよ。昔はショートホープを吸っていたそうですが、二息で終わってしまう(苦笑)。「あれ、すぐ終わっちゃうんだよな。だから葉巻に変えたんだよ」と話していました。

二宮: 確かにショートホープだと、あっという間でしょうね(笑)。
小橋: 葉巻だと30分は楽しめますからね。でも、馬場さんが葉巻をポケットから取り出すと、僕ら付け人はつらかったんです。吸い終わるまでは先に帰るわけにいかない。夜、食事に連れて行っていただいた後、眠くなってきて、そろそろ部屋に戻れるかなと期待したところへ馬場さんが葉巻に火をつける。「あぁ、これであと30分は寝られないな」と心の中でボヤいたものです(苦笑)。

二宮: 馬場さんに付き人として認められたのはいつ頃でしょう?
小橋: 3カ月くらいしてシングルでデビュー戦をした頃でしょうか。それまでは用事がすむと「もういい。帰れ」と、まともに話もしてくれませんでした。それでも仕事だけは一生懸命やっていたら、デビュー戦の後、馬場さんから、「後でホテルの上で待っているから」と声をかけられました。ホテルの上とは、最上階のレストランという意味。その日、初めて馬場さんと一緒に食事をさせていただきました。食事をしながら一言、「よう頑張ったな」と。たった一言ですが、それまでの苦労が吹き飛んだ気がしました。

二宮: 馬場さんから教わったなかで、一番、印象に残っている言葉は?
小橋: 「プロレスラーは怪物であれ。しかし、リングを降りたら紳士であれ」ですね。
(写真:誠実な人柄で多くのファンから愛され、武道館での引退興行には1万7千人が詰めかけた/撮影:真崎貴夫)

二宮: リングの怪物である以上、「人目につくように病院に行くな」とも言われたそうですね。
小橋: はい。スタン・ハンセンとの試合で、パイプいすで殴られた際、いすの連結部分が腕にめりこんで肉がえぐられてしまったんです。縫わないといけないような大ケガだと分かりましたから、後でこっそり病院に行こうと思っていました。ところが、その時は馬場さんの奥さんの元子さんが救急車を呼んでしまった。僕は「馬場さんから日頃、言われているのに、救急車なんて乗れない」と一度は拒否したんです。

二宮: とはいえ、元子さんの厚意をムダにするわけにもいかない……。
小橋: 先輩からも「元子さんがせっかく呼んでくれたんだから乗れ」と説得されました。何度か「乗れ」「乗らない」と押し問答を繰り返して、仕方なく救急車で病院に向かいました。病院からホテルに戻ると、ロビーで馬場さんが葉巻を吸っていました。

二宮: 馬場さんはどんな様子でしたか。
小橋: すぐに「どうもスミマセンでした。ご迷惑おかけしました」と謝ると、葉巻をくわえたまま、僕の顔を見てニコッと笑ったんです。その目を見て、僕は馬場さんの気持ちが理解できたので一安心しましたよ。

二宮: というと?
小橋: 「明日も試合に出るんだろう」と言われていると思ったんです。もちろん僕も腕を包帯でグルグル巻きにして試合に出るつもりでしたから。
 実はデビューして少し経った頃、練習中にヒザをケガして馬場さんから試合を「休め」と言われたことがあるんです。でも、馬場さんの教えは「試合を休むな」。僕は「いえ、休めません」と必死に食い下がりました。ところが馬場さんは「休め」の一点張り。最終的には「オレが休めと言っている意味が分からんのか!」と叱られました。馬場さんが言うには「今日、来ているお客さんは、ジャンボ(鶴田)や天龍(源一郎)やタイガーマスクを観に来ているんだ。オマエを観に来ているんじゃない。だから、休んでいいんだ」と。

二宮: その発言は裏を返せば、小橋さんはお客さんに期待されていないという意味ですからレスラーとしては寂しいですね。
小橋: そうなんです。馬場さんの言葉はまさにその通り。当時は若手で、僕のことを観に来ているお客さんなんて何人いるか分からない。ただ、実際に馬場さんからそう言われると、とても悔しかった。その悔しさを忘れずにやってきて、ハンセン戦の時にはそこそこファンが増えてきている自負がありました。だから馬場さんに「休め」とは絶対に言われたくなかったんです。

二宮: 笑顔で何も言わなかったということが、馬場さんからトップ選手として認められた証だったと?
小橋: 僕はそう受け取りました。笑顔には「オマエはトップレスラーの一員なんだよ」とのメッセージが込められていた気がしましたね。翌日、試合をすると縫った部分がまた切れてしまいましたが、傷はまた縫えばいいんです。でも、試合に穴を開けると、その日を楽しみにしてきたお客さんの思いに2度と応えることはできません。馬場さんも、どんなことがあっても試合に出続けていましたからね。その姿を見習って、僕も25年間、お客さんの期待を少しでも上回れるように努力してきたつもりです。

<現在発売中の小学館『ビッグコミックオリジナル』(2013年8月5日号)に小橋さんのインタビュー記事が掲載されています。こちらもぜひご覧ください>