“強くなりたい”“速くなりたい”。渡邊和也はその想いを胸に実業団で走ることを選んだ。日本歴代2位の好記録、日本選手権優勝、世界選手権出場。だが競技者生活のハイライトとも言える実業団時代は、輝かしい成績ばかりでなく波乱に満ちたものだった。

 

 2006年春、渡邊は山陽特殊製鋼に入社した。報徳学園高校は全国レベルの強豪校とはいえ、いきなり実業団に入ったギャップに戸惑わなかったのだろうか。

「高地トレーニングをしたり、最初はきつかったのですが、やっていくうちにチームの中でも前の方で走れるようになりました。練習の成果がかたちになってきたのは2年目ぐらいだったと思います」

 

 壁は感じなかったという。むしろ自分が強く、速くなっている手応えがあった。

「いいタイムがどんどん出るようになって、壁があったというよりも走るのが楽しくて走っていた感じです」

 入社1年目で伸ばした自己ベストは2年目になっても更新された。5000mは13分台、1500mは3分40秒台と好記録をマークした。日本選手権では1500mで2位に入った。優勝した同種目日本記録保持者の小林史和と、わずか0秒03差だった。

 

 そして迎えた3年目。5月のゴールデンゲームズinのべおかの1500mで3分38秒11の好記録をマークして優勝した。この年に行われる北京五輪の参加標準記録Bを突破するもので、前年の日本選手権では後塵を拝した第一人者・小林に競り勝ってのものだった。

「それまでは標準を切っていなかったので実感がなかったんですが、オリンピックは狙える大会のひとつとして感じられるようになりました」

 

 日本選手権で優勝をすれば、北京行きの切符獲得はグッと近付く。漠然とした目標でしかなかったオリンピック出場が、手の届きそうなところまできていたのだ。

 

 しかし、好調の渡邊に思わぬ落とし穴が待っていた。6月の日本選手権、1500m予選2組をトップで通過した。決勝は3連覇中の小林とシーズン最速の渡邊の2強に注目が集まっていた。序盤はスローペース。渡邊は無理に突っ込もうとせず、力を溜めるように集団につく。ただガムシャラに走っていた高校時代とは違い、入社後は勝ちにこだわる走りを見せていた。

 

 ラスト1周の鐘の音が鳴らされると、渡邊はスルスルと集団の中から抜け出していった。「調子が良くて自分が思っている以上に足が動きました」。バックストレートでさらに加速し、最終コーナーのカーブを前に先頭に立った。彼の言う「思っている以上に足が動いた」とは、好調の証であると同時に知らず知らずのうちに足に大きな負担をかけていたのだった。

 

「最後のカーブを曲がった瞬間に痙攣の前兆が起きていたので、予感はありました」

 直線で抜け出した渡邊は途中、振り返って後ろとの距離を確認した。“あと少し持ってくれ”。だが、その願いは届かなかった。渡邊はゴールを目前にしながら、転倒した。小林をはじめ、他の選手たちに追い越されていく。立ち上がってなんとかゴールしたが順位は8位まで落ちてしまった。

 

 3年越しの雪辱で辿り着いた舞台

 

 北京五輪出場を逃した渡邊に更なる試練が訪れる。「スランプ気味でした」。順調に伸ばしていた自己ベストも更新できなくなっていた。所属先の山陽特殊製鋼陸上競技部が縮小を迫られ、強化合宿やエントリーできる大会数が減った。渡邊は移籍先を探しながらの競技生活を「将来への不安もあり、陸上にあまり集中できていなかった」と振り返る。

 

 2010年9月に入社したのは四国電力だった。売り込んだのは渡邊自身。「山陽特殊製鋼と同じ関西だったので、合宿や試合を通じて知り合いがいました」。その知人を介して監督・スタッフに移籍したい想いを伝え、山陽特殊製鋼の監督からも話をつけてもらった。

 

「肌に合った練習法だったので、すぐに自己ベストを出せるぐらいに戻ってこられた」

 翌年5月のゴールデンゲームズinのべおかでは5000mで13分23秒15をマークした。日本歴代8位(当時)のタイムは世界陸上大邱大会の参加標準記録Bを突破。雨が降りしきる宮崎の夜に、同組で走った外国人選手たちも退ける快走を見せた。ゴール直後に右手で力強いガッツポーズを作った。

 

 復活の狼煙を上げた渡邊は6月の日本選手権でも力を発揮した。5000mに出場すると、1万mとの2冠を狙う日清食品グループの佐藤悠基、トヨタ自動車の髙林祐介、早稲田大学2年の大迫傑、明治大学4年の鎧坂哲哉という箱根駅伝を沸かせたランナーたちとしのぎを削った。レースはオープン参加のビダン・カロキ(ケニア、エスビー食品所属)が独走する中、渡邊は日本人の先頭集団内に位置し、虎視眈々とスパートの機会を窺っていた。

 

 ラスト1周。佐藤、大迫、鎧塚の優勝争いは10人に絞られていた。バックストレートに入り、グングン加速していく渡邊。それについてきたのが佐藤だった。ラストの直線を前に追い付かれかけた。だが、スパート勝負なら負けない。闘争心を燃やし、再びギアを上げると佐藤を振り切った。

 

 13分37分41秒でフィニッシュし、日本選手権初制覇を成し遂げた。その後も好調は続き、1500mで3年前の自己ベストに並ぶ記録を叩き出す。1万mでは自己ベストを更新する27分47秒79をマークし、同種目でも世界陸上参加標準記録Bをクリアする。9月の世界陸上大邱大会の日本代表に選ばれ、3年前は掴めなかった世界大会行きの切符を手にした。

「少し遅れましたが、やっと夢の舞台に立てたなという感じでした」

 

 韓国の大邱で行われた世界陸上は5000m予選落ちに終わった。日の丸を背負って、世界の舞台へ立てたものの、レース中に転倒するアクシデントに見舞われた。「前の転倒に巻き込まれてしまった。心残りがまだちょっとある。日本代表にまた戻っていきたい」。渡邊は世界での借りを返すことを胸に誓ったのだった。

 

“拾ってもらった”2度目の移籍

 

 日本選手権優勝、世界選手権出場を果たした渡邊だったが、今度はケガに悩まされる。10月にアキレス腱を痛めてしまい、秋から春にかけて満足に走れなかった。2011年の好走により5000m、1万mのロンドン五輪参加標準記録は既に突破していたが、日本選手権を欠場せざるを得なかった。「オリンピックには今のところ縁がないですね」。精神的に落ち込んだ時期もあったという。

 

 2013年、アキレス腱も回復の傾向が見えていた頃、四国電力から実業団の名門・日清食品グループへ移籍した。

「四電の時と似ているのですが、知り合いがいたので連絡を取ってもらいました。そこからはトントン拍子で決まったという感じです」

 

 関西から関東へと拠点を移した。環境面の変化を苦にはしなかったとはいえ、ケガが完治していたわけではない。「アキレス腱が痛みを抱えながら、5000mを13分45秒までは戻せた。まだ力は残っているのかなと思えた」。完全復活とまではいかなくとも“まだやれる”との想いで競技を続けていた。

 

 2015年11月、東日本実業団駅伝で5区(7.8km)を任された渡邊は、先頭でもらった襷を区間2位の走りで繋いだ。チームは最終区間でHondaに逆転を許したものの、2位で元日に行われる全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)への出場権を獲得した。「東日本実業団駅伝で日清のユニホームを着て走り、チームに貢献できて良かったなと思います。ダメな時期に拾ってもらった恩返しが多少なりともできたのかなと」。しかし、その後、再びアキレス腱を痛めてしまい、山陽特殊製鋼時代以来のニューイヤー駅伝を走ることはできなかった。

 

 調子が上がってきたタイミングでの負傷。気持ちが切れてもおかしくはない。翌16年はリオデジャネイロ五輪が開催される年だった。日本代表選考会を兼ねた日本選手権の参加標準記録は突破できなかった。入社以来、日清食品グループではニューイヤー駅伝、日本選手権という日本一を争うレースにいずれも出場できなかった。それは会社からの“ノルマ”を達成できなかったことになる。つまりこのシーズン限りで所属契約が終わることを意味していた。

 

 陸上を辞めるという選択肢はなかった。「もし結婚していたら違ったと思うんですが、幸い独身だったので」と笑う。人との縁で実業団を渡り歩いてきた渡邊が、次に選んだ道は大学への入学。それもまた自らが築いてきた縁が繋いだ道だった――。

 

(最終回につづく)

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渡邊和也(わたなべ・かずや)プロフィール>

1987年7月7日、兵庫県生まれ。中学1年で陸上を始める。報徳学園高を卒業後、2006年に山陽特殊製鋼に入社。10年に四国電力、13年に日清食品グループへ移籍した。08年5月に1500mで日本歴代2位の3分38秒11をマーク。11年6月には5000mで日本選手権初優勝を果たす。同年の世界選手権に出場。今年4月より東京国際大学に入学した。身長172cm、体重54kg。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 


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