12日から始まるクライマックスシリーズ、26日からの日本シリーズと、プロ野球は最終決戦に突入する。短期決戦には必ず流れを呼び込む“シリーズ男”が現われる。通算224勝の工藤公康も、かつて日本シリーズ男と呼ばれた選手だ。西武、福岡ダイエー、巨人でのシリーズ14回出場は歴代トップタイ。1986年、87年にはシリーズMVPを2年連続で受賞した。99年の第1戦にマークした13奪三振はシリーズ記録で、通算でも102個の三振を奪って堂々の歴代1位になっている。大舞台で記憶に残るピッチングをみせたサウスポーに、二宮清純がシリーズの思い出を訊いた。
(写真:94年のシリーズ第2戦では、初の3者連続3球三振も記録している)
二宮: 工藤さんは日本シリーズには高卒1年目の82年に初出場し、第6戦にリリーフ登板しています。相手は中日でした。当時のことは覚えていますか。
工藤: 緊張よりも「なんで、ここにいるんだろう」と不思議な感覚でしたね。シーズンでも大事な場面をそれほど任されていたわけではないのに、いきなり「行け!」と言われて、「えっ、ここで投げるの?」という気持ちだったと思います。田尾(安志)さん、谷沢(健一)さんに投げたのは覚えていますね。でも、結果ははっきり記憶がない……。

二宮: 1イニングを投げて無安打無失点です。3回に4−4の同点に追い付かれた場面で登板してピンチを切り抜け、4回も2死をとりましたが、ケン・モッカと谷沢さんに連続四球を与えて降板しています。驚いたことに4回には打席も回ってきて都裕次郎さんからライトオーバーの二塁打も打っているんです。
工藤: たまたまですよ。まっすぐだと思って振ったら当たった。後でビデオで確認したらカーブだったんで、僕はバッターにならなくて良かったと思いましたね(笑)。

二宮: その頃からシリーズ男の片鱗がうかがえますが、やはり印象に残っているのは86年の広島とのシリーズです。1分3敗と王手をかけられた第5戦。延長戦に入って東尾修さんの後を受けてマウンドに上がり、3イニングをゼロに抑えると、最後は自らサヨナラ打も打ちました。
工藤: いや〜、あの時は試合後のロッカールームが大変でしたよ。打った直後はワーッと皆が喜んでくれたのに、ロッカーではシーンとなって荷物をまとめている。第6戦からは広島市民球場に移動だったので、「なんで広島まで行って胴上げ見なきゃいけないんだ」って言われました。「あれ?、僕、なんか悪いことしちゃった?」という感じでしたね(苦笑)。

二宮: パ・リーグはDH制ですから、打席に立つ機会はほとんどない。しかも広島のピッチャーは“炎のストッパー”と呼ばれた津田恒実。よく打てましたね。
工藤: ピッチャーが代わった時点で、なんとなくインコースを攻めてくる雰囲気があったんです。直前の12回表に、キャッチャーの達川(光男)さんにデッドボールを当てていたのもあって……。1球目は案の定、足元へのボールでした。2球目も同じようなところに来るんじゃないかなとバットを振ったら当たりました。だから、あれは打ったんじゃない。うまく当たっただけです。

二宮: まさかタイムリーになるとは思いもしなかったと?
工藤: ええ。二塁ランナーは足の速い辻(発彦)さんだったので、ベンチからは「三振でもいい。当てるならセカンド、ファースト方向に打って三塁に進めてくれ」と指示を受けていました。誰も僕がサヨナラ打を打つとは想像していなかったでしょう。

二宮: 続く第6戦もリリーフで3イニングを投げてセーブをあげると、3連敗3連勝で迎えた第8戦にも1点を勝ち越した8回からマウンドに上がり、胴上げ投手になりました。
工藤: 第8戦はさすがに人生で初めてマウンド上で足が震えました。それで先頭バッターを四球で出してしまった。送りバントで1死二塁。1番の高橋慶彦さんにも四球で一、二塁です。続く山崎隆三さんのセンターライナーの時に、代走で出ていた今井譲二さんが飛び出してダブルプレーになりました。これに助けられて、9回は落ち着いて投げられましたね。

二宮: 広島サイドからすれば、痛恨の走塁ミスでした。
工藤: 代走で出てきて、走塁がうまい人だと聞いていましたから、1点差で何とかホームに戻ってきたいという気持ちが強かったんでしょうね。打たれた瞬間は、僕も正直、「あーっ、やられた」と思いましたから。ただ守備固めで入っていた岡村(隆則)さんが前で守っていて、ポジショニングが良かったんです。

二宮: このシリーズではMVP。続く巨人との87年のシリーズも2年連続でMVPに輝きました。第2戦では3安打完封勝利です。
工藤: 第1戦は東尾さんがKOされ、実は巨人のある選手が「西武も大したことない」といった趣旨の発言をしていたんです。東尾さんは僕らにとっての大エース。そんなことを言われたらカチーンときますよ。あの試合は「やってやろう!」と気合が入っていましたね。

二宮: シリーズでの“舌禍事件”といえば、89年の近鉄・加藤哲郎の「巨人はロッテより弱い」発言が有名です。本人に真相を訊ねると、実際の言葉はニュアンスが違ったみたいですが、87年にも似たような出来事があったんですね。
工藤: シリーズに出てくるチームはどちらも力は持っていますよ。その力をいかに出せないかがポイントになる。相手を本気にさせちゃいけないんです。火をつけるきっかけはひとつのプレー、ひとつの言葉かもしれない。プロの集まりですから、ガッと集中したらものすごい力が出ます。あの時は、「こんなこと言われて、絶対許さねぇぞ」という雰囲気が西武側にあったと思いますね。

二宮: 工藤さんは第5戦で抑えにまわってセーブをあげた後、第6戦では中1日で先発します。3−1とリードして9回のマウンドにもあがり、2死無走者。日本一まであとひとりのところまでやってきました。
工藤: ピッチャーにとって優勝目前の9回2死って、一番楽しい時間なんです。三振をとったら、どんなガッツポーズをしようとか、内野ゴロだったら、どうしようとか、いろいろ考えている。球場全体が自然とピッチャーに注目します。ましてや日本シリーズはテレビ中継もあるので、1年で1番、ピッチャーが目立つ時と言ってもいい。

二宮: ところが……一塁を守っていた清原和博が突然、涙をこぼし始めた。異変に気付いたセカンドの辻さんがタイムをかけて清原のところに歩み寄り、視線がすべてファーストに行ってしまった。
工藤: そうなんです。キヨに全部持っていかれた(苦笑)。あのシリーズ、胴上げ投手は僕なんですけど、たぶん世の中のほとんどの人は記憶がないと思います。

二宮: 確かに清原の涙は印象に残っていても、その後、工藤さんがどうやって最後のバッターを打ち取ったのかを記憶している人は少ないかもしれませんね。
工藤: キヨにしてみれば、巨人に入れると思って入れなかったドラフトのこととか、いろいろ思い出して感極まったんでしょう。でも、それは後になって知った話です。キヨはそういうことを口に出すタイプじゃないから、あの時点では心境なんて分からない。本音は「なんで泣いてんだ? 一番の見せ場を持っていきやがって!」という気分でしたよ。キャッチャーの伊東(勤)さんも他の選手も「ん? どうした」と不思議がっていましたね。

二宮: 打席に入ったのは篠塚利夫(和典)さん。左バッターですから、引っ張った打球がファーストへ飛ぶ可能性もある。
工藤: 正直、困っちゃいましたよ(苦笑)。ファーストにゴロが来たら捕れないかもしれない。まだスコアは3−1ですから、ランナーが1人でも出たら、一発で同点です。「なんとか引っ張らせないようにするしかない」と考えました。

二宮: 結果はセンターフライ。切羽詰まった場面でも、それを実行に移してしまうところに卓越した投球術が垣間見えます。
工藤: 変化球を投げたら引っ張られるので、アウトコースの速い球を投げて逆方向に打たせようとしました。正直、中1日で9回まで投げたので、体はギリギリの状態でした。だけど最後の力を振り絞って、全力で速い球を投げ込んだんです。一番きついところで、一番力を入れなきゃいけなくて、かなりつらかった(笑)。まぁ、今となっては笑い話ですけどね。

<現在発売中の文藝春秋『Number』(838号)では「エースたちの日本シリーズ」をテーマに、工藤さんの99年の中日との日本シリーズに関するノンフィクションを二宮が寄稿しています。あわせてご覧ください>