元巨人監督の川上哲治氏が老衰のため、28日に都内の病院で死去していたことが30日に分かった。93歳だった。熊本工高から巨人に投手で入団した川上氏だったが、打者として活躍。入団2年目に首位打者を獲得すると、戦中、戦後のプロ野球黎明期にヒットを量産して“打撃の神様”と呼ばれた。MVP3回、5度の首位打者、3度の打点王などの実績を残して58年限りで引退。61年から巨人の監督に就任すると、王貞治、長嶋茂雄のONを軸にしたチームづくりを進め、65年からは前人未到の日本シリーズ9連覇に導いた。14年間の監督生活で達成した11度のリーグ優勝、日本一はともに歴代最多。65年には野球殿堂入りを果たし、92年には球界で初の文化功労者に選ばれた。現役時代の通算成績は1979試合、2351安打、打率.313、1319打点、181本塁打。監督としては1066勝739敗、勝率.591だった。
 当サイトでは過去、川上氏に二宮清純が行ったインタビューから発言を抜粋して紹介し、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 監督を2度辞めようと思った

 とにかく巨人の監督というのは大変なんです。ある意味で世の中で一番割に合わない仕事かもしれない。ファンや関係者は負けたら文句を言うし、勝ちすぎると今度は面白くないという。私も2度ばかり辞めようと思ったことがありますよ。

 1回目は4年目のシーズン(64年)の後でしたかね。優勝できなかったことと広岡(達朗)のトレード問題が絡んで、えらいマスコミから叩かれた。それが原因で家内がノイローゼ気味になり、とうとう直腸腫瘍にまでなってしまったんです。私はすぐにガンだと思ったんだが、幸いにも医者はそうじゃないという。しかし、いつまでもこんな生活を続けていると、いつか家内を殺してしまうし、子供の教育にも悪いと思って辞める決心をしたんです。

 でも、この時は会社の判断で、もう1年だけやってみろ、と。どうせ負けたらクビですからね。そう思って開きなおってやったところ5年目から9連覇が始まったんです。

 で、2度目に辞めようと思ったのは6連覇の後。このときは、あんまり勝ちすぎたもので“ジャイアンツが優勝すると決まっとるような野球は面白くない。これじゃプロ野球が潰れる”なんていう論評が出始めた。それにつられてファンも最後の最後まで(優勝の行方が)わからんような形で勝ってもらうほうが面白い、などという。勝ちすぎはいかん、と言われりゃ、もうこっちは辞める他ない。

 このときもオーナーに励まされて、結局は続けることになったんですけど、まぁ、巨人の監督やってると、いろんな辛い目に遭いますよ。自分のことだけならともかく、中には家族のことをあれこれ言う人間までいる。だから、そういうことを覚悟した、しかも私心のない人間じゃないと、とてもじゃないけど、(巨人の監督は)つとまらんです。

“誉めて育てる”が育成の原則
 
 選手の育成も、これまたむずかしい問題ですな。選手の中には「何やっとるんだバカヤロー!」と言われて初めて、クソーッと燃えるタイプもいれば、逆に「オマエは絶対に打てるんだ」と誉めてバッターボックスに送り出してやらなきゃいけないタイプもいる。要は、その選手がいい仕事をするかどうかですからね。それで恨まれたってちっともかまわん。いや、結果を出せば、それまでどんなことを言われようが、選手は恨みになんて思ったりしないんだから。

 それでも私は“誉めて育てる”が選手育成の原則だと思っとります。怒るということは例外中の例外、具体例で言えば、堀内(恒夫)ぐらいでしょうな。私が怒りながら育てたというのは。

 アマチュアにも資金で還元を

 これは野球界全体のためを思って言うんだけど、プロはアマチュアから選手をもらっとるんだから、資金でお返しするようにしていかなきゃならん。高校野球でも大学野球でもノンプロでも、どんどん資金を出して大会を盛り上げてやるんですよ。

 そのためにはプロもお金がいる。どうしたらいいか。アメリカのようにコミッショナーがテレビ放映権を全部牛耳って、そのあがりを12球団に割り振ればいいんですよ。たとえばジャイアンツ絡みの試合だと1試合5千万円は入る。コミッショナーは一番高いジャイアンツ戦絡みだけを得るんじゃなく、パ・リーグの球団も平等に売る。

 ともかく、球団もコミッショナーも親会社も選手も皆が強力してアマチュアのことを考える時期に来とるんじゃないか。選手をとる畑、つまりアマチュアを大切にせんかったら、プロ野球の発展もない。プロだけで野球をやってるという考えはいかんですよ。

<このインタビューは『月刊プレイボーイ』(1989年7月号)に掲載された内容を抜粋したものです>