「カープの考古学」の連載が始まって今回が3回目となる。これまでカープ誕生以前の広島におけるプロ野球誕生物語を書き、その中でプロ野球参入を目指した「鯉城園倶楽部」や「金子物産」の選手には広陵高OBが主力であったことを述べてきた。今回は広陵とともに、広島の野球界を二分してきた広島商業、通称・広商のOBたちの"カープ以前の動き"をキャッチアップしてお伝えしよう。

 

 終戦直後、米軍と野球対決

 人類史上初めて原子爆弾が投下された街・広島。多くの犠牲者を出した凄惨な出来事であり、その広島にカープが誕生したことは、被爆という過去の悲しい運命に大いに関係しているのだが、それについてはまた別の機会に書かせていただくこととする。

 

 大戦が終わり、原爆で焦土と化した広島には、残留放射能の調査などの名目でさまざまな分野の研究者が出入りしていた。さらにアメリカ軍を始め、オーストラリア軍、イギリス軍など多くの駐留軍もいて、開放された旧陸軍軍用地を貫く道路はGHQ総司令部ダグラス・マッカーサーに由来して「マッカーサー道路」と呼ばれていた。子供たちは進駐軍兵士を追いかけてチョコレートやガムなどのお菓子をねだった、いわゆる"ギブミーチョコレート"の時代だ。終戦直後の広島は混沌として、無国籍地帯の様相も呈していた。

 

 そんな広島にあって、ひょんなことから広商OBのひとりが野球の試合の誘いを受けた。OBの名前は保田直次郎、彼のところに舞い込んできた話はこうである。

 

「進駐軍と野球の試合がある。メンバーになってくれんか」

 

 誘ったのは広島アマチュア野球の育ての親といわれた三浦芳郎だった。

 

 この試合の対戦相手はアメリカ陸軍の野球チームであった。母国を遠く離れたアメリカ兵の中には大リーガーをはじめとして多くの野球経験者がいたが、戦時中はボールを握ることもバットを振ることもままならなかった。ところが大戦が終了して戦火が一段落した中にあって、野球をしたいという欲求が高まるのは、野球の母国・アメリカ人としては当然の成り行きだったのだろう。

 

 この試合のために広島でチームが結成されることになるのだが、広島野球界の復活がアメリカ相手の試合でなされることになるのはなんとも皮肉な縁である。

 

 この広島チームの指揮を執ることになったのが先に述べた三浦だった。三浦は広陵高出身で同野球部を育てたと言われる人物だ。では、なぜ広陵野球部OBの三浦が指揮を執る中で、選手には広商OBの保田らが集まったのか?

 

 こんな素朴な疑問を持ち、筆者は直次郎の子息である保田昌志(昭和21年生まれ)を訪ねた。終戦直後、広商OBの直次郎と広陵OB三浦との関係について聞いてみた。

 

「当時は戦後すぐの時代です。広商じゃ広陵じゃとか言っていられなかったんだと思いますよ。父から聞いた話ですが、広陵の野球部の人と出会っても、"おい、イモがあるけえの、もって行けやー"と言うて分けてくれてたそうですよ。食うもんがない時代、そりゃあわずかなイモでしたが、うれしかったようですね」

 

 広商・広陵の"野球連合軍"

 終戦直後は日々、空腹との戦いであったと聞く。その日の食料を探してさまよい、ないないづくしの日々の中、わずかな芋でも分け合った人々がいたのだ。戦前、互いに中等野球のグラウンドで情熱を燃やしながら戦った広陵と広商の"球友"が食料難の時代は助け合う友となった。そんな時代に広商・広陵の"連合軍"がアメリカと再び戦うことになったのだ。

 

 して、その結果は----。というと、残念ながらこの試合の記録について詳細なスコアは発見できていない。ただし「広島スポーツ100年」(金桝晴海・中国新聞社刊)には、以下のような直次郎の言葉が残されていた。

<「(昭和)二十年の暮れに、広島呉市で進駐軍と試合をした記憶がある」>

 

「カープ30年」(冨沢佐一・中国新聞社刊)には、同じく直次郎の言葉で、試合開催時期について語られていた。

<「確か二十年十一月の初旬だった」>

 

 この試合こそが、野球王国広島復活のきっかけとなった歴史的な試合であり、のちの「オール広島」(*1)結成につながっていくのである。

 

 昭和20年11月といえば原爆投下、そして終戦からわずか3カ月後のことである。まだ惨劇の記憶も生々しい時期に、再び、野球をやれる幸せに巡り会えた。このアメリカ軍との試合は広島にプロ野球が生まれることを予感させる、ささやかな前奏になったことだろう。

 

 さて、少しばかり話が横道に逸れるが、余談にお付き合い願いたい。こうした広島の復興期における進駐軍兵士らとの関わりや生きざまを描いた長編アニメ映画「カープ誕生物語 かっ飛ばせ!ドリーマーズ」(1994年)をご存知だろうか?

 

 カープ誕生に心躍らせ、郷土の復興を目指す市民の熱気や当時の町の賑わいが感じられる名作だ。原爆によって家族を亡くした主人公・進(ススム)少年らの野球チームが進駐軍チームに果敢に挑んでいく。勝ったときの褒美はチョコや缶詰だった。

 

 さらに付け加えれば声優として長谷川良平、山本浩二、そして鉄人・衣笠祥雄とレジェンドが登場するとあっては、カープファンとしては見逃せない名作である。

 

 "オール広商"vs巨人軍

 話を本論に戻そう。

 

 このアメリカとの試合をきっかけに生まれた"広商・広陵連合軍"は、オール広島と名付けられた。これが単なる寄せ集めの草野球チームではなく、昭和25年には都市対抗野球大会で後楽園にまで勝ち進み、社会人チームとして成長していった。

 

 このオール広島の足跡を辿っていくうちに、驚くべき史実に突き当たった。あの読売巨人軍と対戦していたのだ。オール広島と巨人の一戦は、昭和21年12月14日に廣島復興期成会の主催により、広島総合球場で行われている。進駐軍との一戦から約1年後のことである。

 

 この試合、巨人のスタメンがすごかった。四番にはあの打撃の神様・川上哲治がいた。それに加えて"塀際の魔術師"といわれた平山菊二。戦前の盗塁王である呉新亨なども名を連ねた。さらに"猛牛"の異名をとった名手・千葉茂も控えていた。先発投手としてマウンドに上がったのは川崎徳次だ。川崎はこの翌年に24勝(16敗)をあげた巨人軍のエースである。

 

 対するオール広島は、一部に広陵OBもいたが、前述の保田直次郎を筆頭に小川定見、円光寺芳光、徳島登彦、徳島忠彦の徳島兄弟、奈良友夫ら広商OBがズラリと並んだ。"オール広商"とは言い過ぎかもしれないが、しかし、のちに広商の監督を務める人物が3人もいた強豪チームである(*2)。

 

 さあ、プレイボール。ところが、巨人の猛打が爆発した。神がかったように打つわ打つわで、21安打を浴びて16点を入れられた。一矢報いたいオール広島は、3回にショートのエラーで1点を返したものの、1対16という一方的な展開で試合終了。1時間55分という短い試合時間であったことからもわかるように、力の差は歴然だった。

 

 ただし、あの巨人軍と対戦することができたことは、まだカープの影も形も見えない広島において、一筋の光が差し込んだ出来事であろう。「広島にもプロ野球を」との機運を高めることにつながっていく。

 

 さて、試合終了後、巨人はこの日2試合目、ダブルヘッダーを行った。対戦したのはグリーンバーグ、このチーム名は当時、大リーグで活躍していたハンク・グリーンバーグ(*3)の名からとったもの。終戦直後、なんとも粋なチーム名をつけるハイカラな球団が日本にもあったのである。

 

 このグリーンバーグの監督は誰あろう、カープの初代監督となる石本秀一だった。石本は広島が生んだプロ野球の名将、野球の鬼とまでいわれた男である。この巨人との一戦の後、まさにカープ誕生につながった一言が石本から発せられ、広島の町に伝えられたとされている。

 

 さて、石本は何と言ったのか? いよいよカープの誕生前夜はクライマックスを迎える。石本は郷土・広島にいかにしてプロ球団を誕生させようとしたのか。その情熱のコメントは次回、紹介することにしよう。乞うご期待。
(つづく)

 

【注釈】 *1 オール広島。文献によれば「全廣島」と記載されているものもある。また、昭和6年に都市対抗に出場した「全廣島」があるが選手や監督らに同一人物が見当たらない。ここでは、当時の「全廣島」と終戦直後の「全廣島」は区別して記す。

*2 保田直次郎は広商第六代監督、小川定見は第八代監督、円光寺芳光は第九代監督。徳島兄弟は投手・登彦、捕手・忠彦と兄弟でバッテリーを組むこともあった。奈良友夫は第35期卒の外野手。

*3 ハンク・グリーンバーグ。デトロイトタイガース、ピッツバーグ・パイレーツなどで活躍したユダヤ系の大リーガー。人種差別が残る当時のアメリカで、現役通算13年間で打率3割1分3厘、331本塁打を記録。兵役のため5年間出場していないが、戦争がなければ500本塁打も夢ではなかったといわれている。右投右打。一塁手、左翼手。

 

【参考文献】『広島スポーツ100年』(金桝晴海・中国新聞社刊)、『カープ30年』(冨沢佐一・中国新聞社刊)
【取材協力】保田昌志

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


◎バックナンバーはこちらから