二宮清純: 1970年後半から80年代前半にかけて圧倒的な強さを誇った瀬古さんは、私たちの世代にとってはカリスマです。

瀬古利彦: ありがとうございます。でも大した選手ではないですよ。だって、オリンピックで勝てなかったんだから……。

 

 

 

 

二宮: “たられば”を言っても始まりませんが、もし1980年モスクワオリンピックに出ていたら……と思わずにはいられません。瀬古さんはマラソン日本代表に選ばれたものの、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に日本はアメリカなどと共に大会をボイコットしました。中には涙を流して抗議する選手もいました。

瀬古: モスクワオリンピックに出ていればチャンスでしたね。それは自分でも思います。あの頃は力を入れなくても走れた。しかし年を取るにつれ、頑張らないと身体が動かなくなってきたんです。

 

二宮: 瀬古さんが一番強かったのは?

瀬古: 80年前半から中盤くらいにかけてでしょうね。トラックでもヨーロッパで勝っていました。スピードもありましたし、負ける気がしなかった。モスクワなので気温も暑くない。最低でもメダルは獲っていたと思いますね。

 

二宮: マラソンのタイムは当時の世界歴代トップ10位以内ばかりです。

瀬古: 当時はペースメーカーもいませんでしたからね。

 

二宮: 逆に瀬古さんの時代にペースメーカーがいたら、もっと記録が出ていたかもしれませんね。

瀬古: 私は中山竹通君がペースメーカーありで走っていたら2時間4分台を出していたと思いますよ。彼は私が見た中で一番強かった。

 

「這ってでも出てこい」の真相

 

二宮: 中山さんと言えば、ソウル五輪出場をかけた87年の福岡国際マラソンが強く印象に残っています。大会タイ記録となる2時間8分18秒で優勝しました。私も現地で取材していました。

瀬古: あれには度肝を抜かれましたね。“日本人でこんな走りができるのか”と驚きましたよ。

 

二宮: 氷雨が降る中でのレースでした。

瀬古: そうですね。雨の中で最初の5 kmを14分34秒で走った。そのまま20kmまで5km14分台で突っ走っていきましたからね。もし私が出ていても敵わなかったと思います。

 

二宮: 瀬古さんでも?

瀬古: 一緒に走って同じレース展開をされたらね。当時の私には、もうあのペースに太刀打ちできる力はありませんでした。ただ私が出ていればレース展開が変わっていた可能性はある。そこがマラソンの面白いところです。

 

二宮: この大会を瀬古さんは左足の故障を理由に欠場しました。

瀬古: 大会の1カ月前に東日本実業団駅伝に出場した際、左足を捻挫してしまいました。左足腓骨の剥離骨折でした。

 

二宮: そこまでひどかったんですか……。中山さんの瀬古さんに対する「這ってでも出てこい」という発言が話題になりましたが、あれは誤解です。欠場する瀬古さんについて聞かれて、「僕なら這ってでも出る」と言ったところ、曲解されてしまった。僕は近くでやり取りを聞いていました。

瀬古: そうだったんだ。中山君も悪者になって気の毒だよね。スポーツマンの常識から考えて、後輩が先輩に対してあんな事言うわけないんだから……。

 

 ペースメーカーはいらない

 

二宮: 瀬古さんは翌年3月にびわ湖毎日マラソンに優勝してソウルオリンピック日本代表に選ばれました。左足のケガは完治していましたか?

瀬古: ケガは治っていましたが、練習をやり切れていない不安がありました。11月中旬にケガをして、そこから2カ月治療に時間がかかった。1月中旬に復帰して、あと1カ月半で仕上げなければならないという過酷な状況でした。

 

二宮: ぶっつけ本番ですね。

瀬古: そうですよ。ただ、それまで厳しい練習を積んでいたので、ある程度のレベルに戻るのは早かった。でも本当の意味でのスタミナは戻らなかった。それが不安で40km走もやりました。2時間3分30秒の自己新です。速く走り過ぎたのが災いしたのかもしれません。

 

二宮: フィニッシュタイムは2時間12分41 秒でした。

瀬古: 当日は雲ひとつない快晴で、3月にしてはすごく暑かった。前日は雨で気温は低かったのに、急激に高くなった。練習は速いペースで走っていたので、ペースも落とせない。“行けるだけ行こう”と思いましたが、後半はバテましたね。

 

二宮: 当時はペースメーカーもいませんでしたからね。

瀬古: 実は私のペースメーカーをやりたいと言ってきた後輩がいたんです。

 

二宮: それは初耳です。

瀬古: 後輩が「瀬古さん僕らが引っ張りますよ」とペースメーカー役を買って出てくれた。でも私は「いいよ。これはオレが招いたことだから、自分で始末する」と断ったんです。

 

二宮: 男気ですね。

瀬古: カッコ良いでしょ(笑)。勝つ自信もありましたから。

 

 先輩への恩返し

 

二宮: 現在、男子の日本記録更新など日本のマラソンに復活の兆しが見えています。瀬古さんのオーラが若い選手を発奮させているのでは?

瀬古: オーラかどうかはわからないけど、少しでも明るくいこうとは思っています。注目されなければいけないし、メディアに取り上げてもらわなければいけません。

 

二宮: オリンピックはもう2年後です。

瀬古:  54年前の東京オリンピックで円谷幸吉さんは日本に感動を与えてくれた。それをもう一度再現したいと思っています。

 

二宮: 円谷さんは東京オリンピックで銅メダルを獲得しました。続くメキシコシティオリンピックでは円谷さんのライバル君原健二さんが銀メダルを手にしました。

瀬古: この2人が日本のマラソンをつくってきたと思います。だから、その恩返しがしたいんです。

 

二宮: 円谷さんはメキシコシティオリンピックを前に自ら命を絶ちました。

瀬古: 私にはすごくショックでした。小学6年生だったので、よく覚えています。“マラソン選手でここまで命を懸けて戦った人がいるんだ”と衝撃的でした。

 

二宮: メキシコシティオリンピックで銀メダルを獲得した君原さんの走りは、首を振りながらとても苦しそうでした。

瀬古: 想像ですが円谷さんのことを頭に思い浮かべながら走っていたのではないでしょうか。“自分が頑張らなかったら、円谷が浮かばれない”。そんな気持ちだったように思われます。2020年3月に東京オリンピックのマラソン日本代表が決まります。私は代表選手全員で円谷さんのお墓参りをしようと考えています。君原さんにも「一緒に行ってください」と頼みました。

 

二宮: それはいい話ですね。ぜひ実現してほしい。では改めて、雲海酒造の本格芋焼酎『木挽BLUE』のロックの味は?

瀬古: 飲むほどに香りが立ってきて、癒されますね。芋のいい香りがしています。

 

二宮: レジェンドの瀬古さんと心ゆくまで飲めて、今日はいい夢が見られそうです。

瀬古: こちらこそ。東京オリンピックでのメダルの夢は、単なる夢では終わらせませんよ。必ず現実にしてみせますから。

 

(おわり)

 

瀬古利彦(せこ・としひこ)プロフィール>

1956年7月15日、三重県生まれ。四日市工業高校で本格的に陸上を始める。早稲田大学進学後は、長距離ランナーとしての才能が開花。箱根駅伝で4年連続“花の2区”を任され、3年時から2年連続で区間新を記録した。マラソンでは国内外で15戦10勝と圧倒的な強さを誇った。オリンピックには80年モスクワ、84年ロサンゼルス、88年ソウルと3大会マラソン日本代表。引退後は指導者として後進の育成にあたる。13年に横浜DeNAランニングクラブの総監督に、16年には日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化・戦略プロジェクトリーダーに就任した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回、瀬古利彦さんと楽しんだお酒は芋焼酎「木挽BLUE(ブルー)」。宮崎の海 日向灘から採取した、雲海酒造独自の酵母【日向灘黒潮酵母】を使用し、宮崎・綾の日本有数の照葉樹林が生み出す清らかな水と南九州産の厳選された芋(黄金千貫)を原料に、綾蔵の熟練の蔵人達が丹精込めて造り上げました。芋焼酎なのにすっきりとしていて、ロックでも飲みやすい、爽やかな口当たりの本格芋焼酎です。

 

提供/雲海酒造株式会社

 

<対談協力>

酒菜 ねむ太郎

東京都新宿区荒木町3フォレストビル1階

TEL:03-6273-2362

 

営業時間

【平日】17:00~

【土】予約制

【定休日】日曜・祝日

 

☆プレゼント☆

 

 瀬古利彦さんの直筆サイン色紙を本格芋焼酎『木挽BLUE』(900ml、アルコール度数25度)とともに読者3名様にプレゼント致します。ご希望の方はこちらのメールフォームより、件名と本文の最初に「瀬古利彦さんのサイン色紙希望」と明記の上、下記クイズの答え、郵便番号、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)を明記し、このコーナーへの感想や取り上げて欲しいゲストをお書き添えの上、お送りください。応募者多数の場合は抽選とし、当選発表は発送をもってかえさせていただきます。締切は7月12日(木)。たくさんのご応募お待ちしております。なお、ご応募は20歳以上の方に限らせていただきます。

 

◎クイズ◎

 今回、瀬古利彦さんと楽しんだお酒の名前は?

 

 お酒は20歳になってから。

 お酒は楽しく適量を。

 飲酒運転は絶対にやめましょう。

 妊娠中や授乳期の飲酒はお控えください。

 

(写真・構成/杉浦泰介)


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