「あぁ、本当にこれで良かったんだ……」
2013年12月、ソチパラリンピックシーズンの開幕戦となったW杯初戦(カナダ)。クロスカントリー(立位)の佐藤圭一は、それまで抱いていた疑念が、確信へと変わっていくのを感じていた。その日、佐藤がテーマとしたのは“リラックス”だった。 “力強く、がむしゃらに”滑るこれまでとはまったく違うスタイルに、正直、佐藤は半信半疑だった。しかし、その成果は予想をはるかに上回っていた。前シーズンまでの佐藤は、例えばクラシカル・ミドル(10キロ)では差が開いた時にはトップ選手より5分ほど遅れをとっていた。だが、その時のトップとのタイム差は、2分台。確実に佐藤のパフォーマンスは上がっていたのだ。
 効果覿面のリラックス法

「Keiichiに必要なのは、リラックスだ。あとは何も考えなくていい。リラックスすることだけを考えれば、すべてが解決するよ」
 昨年11月のことだ。カナダ・クロスカントリースキーナショナルチームのコーチの言葉に、佐藤は驚きを隠せなかった。
「はじめは、その言葉を理解することができませんでした。『えっ!? なんでリラックスなの? 力を入れなくちゃ、速く滑ることなんてできないじゃないか』と。でも、カナダのコーチは『もちろん、力は必要だ。でも、その時もリラックスすることが重要なんだ』と教えてくれたんです」
 実は当時、佐藤は自分の滑りを確立することができずに悩んでいた。

 ソチパラリンピックまで1年と迫った昨オフ、佐藤は世界との差をなかなか埋められない自分に、“ビッグ・チェンジ”の必要性を感じていた。
「思い切って、これまでやってきたことをゼロにして、まったく新しいことにチャレンジしないと……」
 そこで佐藤がとった行動は、強豪国のナショナルチームに練習参加を打診することだった。世界のトップ選手たちと行動を共にすることで、彼らがどんなトレーニングをし、どんなプランで過ごしているのかを知ろうと考えたのだ。個人的な依頼にもかかわらず、ロシア、ウクライナ、カナダのナショナルチームが佐藤を受け入れてくれた。いずれもメダリストを輩出している強豪国だ。

 昨年6月にウクライナ、7月にカナダ、8月にウクライナ、10月にロシア、11月にカナダと、計5回、佐藤は各ナショナルチームの合宿に、ただひとりの日本人として参加した。その結果、得たものは大きかった。フィジカル、テクニック、メンタル、トレーニング方法……すべてにおいて、課題が浮き彫りとなり、各チームのコーチや選手から貴重なアドバイスを受け取った。しかし、佐藤はあまりにも多くのものを受け取りすぎた。特にフォーム修正においては、収拾がつかない状態に陥った。
「あまりにも細かいことを聞きすぎてしまって……。あれもしなくちゃいけない、これもしなくちゃいけないと、逆にフォームがバラバラになってしまったんです」

 シーズン開幕まで約1カ月と迫った11月、2度目となるカナダチームの合宿に臨んだ佐藤は、コーチに悩みを打ち明けた。その時、もらったアドバイスが先の「リラックス」だったのだ。疑心暗鬼ながらも、佐藤はそれ以降、常にリラックスすることを心がけるようにした。練習では好きな音楽を聴き、力みのない滑りを追求した。だが、本当にこれでいいのかは、シーズンがスタートするまではわからなかった。
「結局、試合で全然ダメだったらどうしよう……」
 そんな不安が脳裏をよぎることも少なくなかった。それだけに、シーズン開幕戦での佐藤の喜びは、どれだけ大きかったかは想像に難くない。

「もちろん、実際のレースでは音楽を聴くことはできません。でも、音楽を聴きながら滑っていた時の状況をイメージしながら滑りました。そしたら、トップのロシア選手との差をいつもの倍以上も縮めることができた。その大会はロシア選手にとってはソチパラリンピックの選考会も兼ねていましたから、みんな本気モードでした。その中での結果でしたから、自分のパフォーマンスが上がっていることを実感することができました」

 “レスト ハード”の重要性

 もうひとつ、佐藤が“ビッグ・チェンジ”したものがある。練習時の意識改革だ。これまでの佐藤のモットーは「がむしゃらにやれば、強くなる」だった。そのため、休むことを良しとしなかった。
「疲れていようが、身体のどこかが痛かろうが、お構いなしに練習していました。試合前日も平気で午前も午後も、何時間も滑ったりしていたんです。『休んでしまえば、それだけ世界と差が開く』。そう思っていました」

 そんな佐藤の意識を変えたのは、カナダチームとの合同合宿で一緒にトレーニングをしたブライアン・マッキーバーだった。マッキーバーはバンクーバーパラリンピックで3冠を達成し、うち10キロクラシカルではソルトレイクシティ、トリノ、バンクーバーと3連覇を果たした。実はバンクーバーオリンピック出場の可能性もあった。09年、北米選手権で50キロクラシカルで優勝し、バンクーバーオリンピックのカナダ代表枠を獲得したのだ。結局、代表入りは果たせなかったが、実力は折り紙つきである。

 そのマッキーバーに、佐藤はこう言われた。
「オマエは、“レスト ハード”でいい」
 この言葉は佐藤の意識をガラリと変えた。
「休養を大事にしなさい、とブライアンに言われたんです。はじめは驚きましたが、とにかく何かを変えたいと思っていたので、まずはやってみようと。スキーのことをまったく考えない日をつくるようにしたり、練習をしていても筋肉が張っていたりしたら、早めに切り上げるようにしたり……。試合前も1週間前からはスキーに乗るのは午前だけにして、午後はランニングとかエアロバイクで軽めのメニューをするようにしました。ただがむしゃらにやるのではなくて、きちんと身体のことを考えて調整するようになったんです」
 こうした意識改革もまた、佐藤のパフォーマンスを上げていることは言を俟たない。

 ソチパラリンピックまで残り1カ月を切った。今、佐藤は非常に落ち着いているという。
「もちろん、緊張もしていますし、不安もあります。でも、4年前とはまったく違いますね」
 初めて出場したバンクーバーパラリンピックでは、緊張のあまり、冷静さはほぼゼロに近かったという。「成績が良くなかったら、どうしよう……」。そんな不安が、常に押し寄せていた状態だった。だが、今は違う。

「ソチでの目標は、とにかくリラックスしてスタートに立ち、その状態のまま走り抜いて、ゴールをすること。そして、大会期間中も追い込まずに、“レスト ハード”を大事にする。それらが完璧にできれば、結果は自ずとついてくると信じています」
 スタート10秒前でも、口笛を吹けるほどリラックスした状態が理想だという佐藤。力みのない、伸びのある滑りを、ソチで見せてくれるに違いない。

佐藤圭一(さとう・けいいち)
1979年7月14日、愛知県生まれ。エイベックス・グループ・ホールディングス株式会社avex challenged athletesに所属。左手関節部欠損。2005年、26歳から本格的にクロスカントリーを始めようと、単身カナダへ。約1年間、アルバイトをしながらスキー場に通った。07年にはナショナルチームのメンバーに選ばれ、10年バンクーバーパラリンピックに出場。今年、2度目となるパラリンピック(ソチ)に挑む。

(文・斎藤寿子)