スペインにいたころ「勝てば選手のおかげ。負ければわたしの責任。それが監督という仕事だ」という言葉を聞いたことがある。監督=権力者という思い込みがあったわたしにとっては、衝撃的な言葉だった。

 

 もちろん、監督という人種にもいろいろなタイプがあるし、あっていい、とは思う。ただ、監督に限らず、スポーツにおける組織の長たるもの、スポーツにおける最大の主役は選手だということだけは、忘れないでいただきたいと思ってきた。

 

 それだけに、今年に入って相次いで起きたスポーツ界の不祥事と、それに対する幹部の対応には、心底呆れる。日大アメフット部にしてもボクシング連盟にしても、幹部がやっているのは件の言葉とは正反対のことだからである。

 

 特に、ボクシング連盟山根会長の村田諒太に対する言葉には、呆れを通り越して笑いすら込み上げてきた。まさか、縁の下の力持ちたる立場の人間が、選手の流した汗の尊さよりも己の功績の大きさを言いだすとは。

 

 ただ、他の競技団体に目を向けると、当たり前のようにまかり通っている“アンチ・アスリート・ファースト”の膨大さに愕然としてしまう。

 

 たとえば、数多の学校スポーツの大会でいまだに実施されている開会式。灼熱の炎天下であろうが、凍てつくような寒さの中だろうが、選手たちは無言の行進と、退屈な長話に耳を傾けるフリをすることを強いられる。あれは、何か選手のためになるのだろうか。あるいは、競技力向上のためになにかメリットが?

 

 ご存じの通り、五輪にも開会式、閉会式はあるが、そこには欠席する自由も認められている。学生たちを反強制的に参加させていることに疑問も抱かない方々は、スポーツに対する根本的な考え方がいま日本中から袋叩きにあっている方々と何が違うというのだろう。

 

 史上最多のペースで熱中症による死者が増えている中、何事もなかったかのようにスポーツの大会が開催されていることにも驚かされる。何しろ、「危険ですから外出を控えてください」とテロップで流しているテレビ局が、高校野球の試合を中継しているのである。

 

 幸い、いまのところ甲子園やインターハイで熱中症による死者が出たという話は聞こえてこない。だが、それはあくまでも幸運にすぎないということを、大人たちは真剣に考えるべきではないだろうか。いつ出てもおかしくない犠牲者が出てしまった場合、いったい、誰がどんな形で責任をとるというのか。

 

 世界各国から暑さに対する懸念の声が上がったことで、五輪については様々な対策が立てられつつあるようだ。だが、トップアスリートほどには肉体的に完成されてない若年層が、トップアスリートですら耐えかねる過酷な環境での試合を余儀なくされている状況は、いつまで続くのだろう。

 

 せめて、一定以上の気温に達した場合はすべてのスポーツを禁止する、ぐらいのルールを作らなければ、子供たちの命が危ない。残念ながら、日本の夏はそんな次元に入ってしまった。

 

<この原稿は18年8月9日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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