カープの考古学では、広島になぜプロ野球球団が生まれたのか、その歴史的な背景を探ってきた。


 カープの本拠地・広島には、明治時代には日本軍の大本営が置かれ、第一次、そして第二次と2度起きた世界大戦でも軍部中枢都市の役割を果たした。大戦終結前には人類史上初の原爆が投下され、広島は一瞬で焼け野原となった。「向こう70年は草木も生えない」と言われたが、その土地にカープが誕生できた理由とはいったい何だったのか? 今回は、さらに深く掘り下げてみたい。

 

 市民球場以前の本拠地

 戦前から広島県民・市民の野球に対する情熱は並々ならぬものがあった。日本に野球が伝わった明治以降、中等野球においては、広島商や広陵、広島一中などにより名勝負が繰り広げられ、熱狂的な野球ファンを生んだ。また職業野球にも藤村富美男や鶴岡一人、白石勝巳など多くの名選手を輩出した。広島の人々には昔から"野球県"との誇りがあったのは言うまでもない。

 

 考古学の過去4回では、そうした人々の情熱がカープ誕生に向けた原動力になったと述べたが、今回は少しばかり視点を変えてみたい。広島にプロ球団・カープが誕生できた、その理由とは、広島には球場があったからである--。

 

 フランチャイズ制度をとるプロ野球において、球場は欠くことのできない存在である。昭和初期には全国津々浦々に野球のできるグラウンドが存在しており、球場というレベルでは、大学野球の神宮や中等野球の甲子園もあった。やがて職業野球が生まれ、全国的な興行が行われていくことになるが、広島にも広島総合球場(現・コカ・コーラボトラーズジャパン広島総合グランド野球場)があったことは幸運だった。カープ誕生の流れを止めることなく加速させたのは、この球場の存在によるところも大きい。

 

 広島総合球場は昭和16年12月に完成。中国新聞には「関西一を誇る」(昭和16年12月8日付)との見出しが躍った。関西一の名は伊達ではなく、野球場の他に陸上競技場、、庭球場、籠球場、排球場、プール、相撲場、弓道場、体育館、自由運動場や児童遊戯場などが併設された。竣工記念として3日間にわたって体育大会が催され、日本を代表する陸上選手らがゲストとして招かれ、模範演技を見せて観客をわかせたのである。

 

 あの"暁の超特急"と呼ばれたスプリンター吉岡隆徳がトラックを走れば、広島出身のオリンピック金メダリストの織田幹雄が三段跳びを披露する。また砲丸投げの高田静雄(*1)の力強い投擲に観客は大いに沸き上がった。こけら落としの名にふさわしく、お祝いムード満点の幕開けとなった。カープ誕生からさかのぼること、実に8年前のことだ。

 

 総合運動場は当時、廣島総合體錬場(たいれんじょう)と呼ばれていた。もともとは厚生省が若者の体力の向上を図ろうと、全国10カ所に総合運動施設の建設を計画したことが発端であった。呉市との誘致合戦の末、広島市観音地区に建設が決定した。

 

 工事着手は紀元2600年という記念すべき節目の昭和15年になされ、1月15日を起工式とした。おおよそ2年に及んだ工事は、のべ18万人という中学生の勤労奉仕によって支えられた。のちのカープ球団職員で、草創期の球場アナウンスを担当する渡部英之(故人)も勤労奉仕に駆り出されたという。「モッコを担ぎましたよ」とは、筆者が生前のインタビューで聞いた話である。

 

 渡部ら青少年たちの勤労奉仕によって運動場が完成し、当時の新聞は「二カ年にたらんとする歳月を費し若人十八萬人の血と汗の奉仕によって」(「中国新聞」昭和十六年十二月七日)と伝え、その労をねぎらった。「お国のために」という思想が渦巻く時代とはいえ、多くの青年らの奉仕で完成したスタジアムは、まさに県民・市民らの結晶と言えるものだった。

 

 日米開戦。祝賀ムード一変

 運動場の建設が順調に進んでいた昭和16年といえば、一方で日米関係が急速に悪化した年でもあった。日本のアジア進出が止まらぬ中で、9月にはアメリカが対日石油輸出全面禁止を打ち出し、日本の動きをけん制した。きな臭い空気が日本国内を覆った結果、夏の甲子園大会はやむなく中止となった。白球を追いかけ、野球に没頭した若き球児らの夢ははかなくも散ったのである。この後、5年間にわたり甲子園大会は闇の時代を過ごすことになる。

 

 こうした中、12月の広島総合運動場の完成記念大会で、県下中等学校野球大会が行われることになったのは球児たちにとってこの上ない朗報だった。「待ってました!」とばかりに、彼らは一投一打に闘志むき出しで試合に臨んだのである。

 

 大会2日目、広島商業対広島県工の試合が行われた。初回、いきなり、広商・磯田憲一(広商ー明大-コロムビア-広島)のホームランが飛び出し、祝賀ムードに花をそえた。磯田はカープ創設当時のメンバーでもある。

 

 試合は名門・広商が終始ゲームの主導権を握る展開となった。そして迎えた4回のことだ。突如として場内アナウンスが流れた。

 

「帝国海軍は本日未明、西太平洋において、米英両軍と戦闘状態に入れり」

 

 真珠湾攻撃、日米開戦の報せである。竣工記念の祝賀ムードが一変した。このときの様子を、当時の新聞はこう伝えている。

 

「折から、場内各所に設けられたラジオスピーカーが、対英米宣戦布告を報じ、若人の決戦気勢火と燃えて、大会はいやが上にも高囂した」(「中国新聞」昭和16年12月9日)

 

 球場のこけら落としというハレの日に、日本、そして世界的な一大事が起こった。この試合は広商10-2県工のスコアで成立したものの、新聞を見てもこの大会の記録は結果のみが伝えられ、その後、特に報じられることはなかった。

 

 この大会の様子は「広島県高校野球五十年史」にはこうある。
<軍艦マーチとともに大本営発表が再三、アナウンスされた。会場で初めて開戦を知った人も多かった。体育大会の会場は異様な雰囲気に包まれた>

 

 関西一と称された広島総合球場の存在と幕開けの華やかな記念大会のことは、太平洋戦争が進むにつれて人々の記憶から薄れていった。さらに戦況が悪化するにつれて、球場の運命も急転直下で転がり落ちていく。

 

 食糧難を乗り切るためにと土の部分には芋が植えられ、グラウンドは荒れ放題になった。さらに終戦間際には、球場が瀬戸内海に面した新開地区だったこともあり、4門の高射砲が据えられた。制空権を失っていた日本の見張り番として球場が使われたのだ……。せめてもの救いは、原爆で焼けることなく球場が残ったことだった。

 

 誕生直後から時局に翻弄されたこの球場の運命は、広島県民・市民の手で誕生したカープの苦難続きの歴史とこの上なくかぶってみえる。結果として、いかなる困難にも負けずに存在し続けたからこそ、広島におけるプロ野球誕生を下支えし、カープ草創期の拠点となることができたのだ。

 

 カープが存続の危機に瀕した際に「たる募金」が行われたのは有名な話だが、初めて酒樽が置かれたとされるのは、この球場のレフト側の入口である。そこに積まれている石垣は、当時のままの姿を残している。

 

 カープ草創期の関係者、県民、市民の苦労は地元・広島でも語り継がれているが、球場そのものにも苦難に耐えた時代があったことはこれまであまり語られたことはない。球場の生い立ちとその後にもドラマがあったことは、実に広島らしいと筆者は感じている。
(つづく)

 

【参考文献】 『芸備之友 33巻』(東京藝備社)、『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、『広島県高校野球五十年史』広島県高校野球 五十年史編集委員会(広島県高校野球連盟)、『広島商業高校野球部 百年史』広商野球部百年史編集委員会(広島県立広島商業高等学校)、『中国新聞』(昭和16年12月8日~11日)

 

【注釈】 *1たかた・しずお。1909年生まれ。1936年ベルリンオリンピックの砲丸投げ日本代表選手。国内での優勝は6回で砲丸王と呼ばれた。出身地である広島で被爆。原爆症と戦いながら、ベルリンオリンピックで写真を撮ったことを契機に写真家として活動した。63年、54歳で死去。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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