猛暑と異常気象のこの夏、とりわけ印象に残った言葉がある。

 

「自由自在な投球を心がけたい」

 これは朝日新聞8月18日付からの引用だ。より前後の脈絡まで書いた「サンケイスポーツ」(8月18日、引用は産経デジタルによる)だとこうなる。

「たくさんご飯を食べて早く寝る。160球投げたのは言い訳にしない。それを踏まえて自由自在の投球をしたい」

要するに、「あしたは自由自在に投げたい」と言っている。金足農業・吉田輝星の言葉だ。

 

 大阪桐蔭の夏かと思いきや、彼らから主役の座を奪い取った吉田の魅力は、意外性、もっといえば意外な奥行きの深さである。地方の豪球投手と言えば、ストレートとスライダーを力いっぱい投げ込むイメージがある。吉田も最初のうちはそんな印象だった。しかし、勝ち上がるにつれ、別の顔を見せ始める。

 

 この言葉は、横浜戦で、12安打されながらも14奪三振で5-4と逆転勝ちし、翌日連投で近江戦に臨む抱負として語ったものだ。でも、ふつう、「自由自在に」とは言わない。

 

 要するに、ストレート、スライダーだけでなく、スプリットもカーブもツーシームも交えて、いろんなパターンで打者を打ち取っていきたい、ということだろう。その際、常識的な配球に縛られず、自由な発想で投げたい……。これこそが、この人の本質なのである。

 

 見ていて一番好きだったのは、たとえば2死で左打者を迎えた場合。スライダー、ツーシームで内角、外角を攻め、スプリットも見せたりしてカウント2-2にする。最後は外角高めへ渾身のストレート。これが、例によってグイッと伸びて見逃し三振! 吉田は投げた瞬間、三振を確信して、白い歯を見せながら、ベンチに走る――。気持ちいい!

 

 新幹線のような直球と打球

 

 たしかに、彼のストレートは、他の投手とは別次元の伸びを見せた。現代の科学を信じるなら、投げたボールが物理的に浮き上がることはない。必ず重力の影響で沈む。しかし、ボールには下から上へという回転によって揚力が加わる。その回転量によって沈む幅に個人差が出る。吉田のボールは、上への回転量がきわめて多いため、あまり沈まない。他の投手はより大きく沈むため、その差が、目の錯覚で、ボールが伸びているように感じられる。と、まあ、おおざっぱにはこういうことだろう(ちなみに、それでも、江川卓のストレートだけは物理的に浮き上がっていた、と私は信じていますが・笑)。

 

 ただ、このことをもって、いわゆるフォーシームの復権だとか、日本野球のフォーシームをみなおそう、という言説につながるのは、早計というものだろう。彼はボールを放すとき、ほぼ、真上から真下に切っている。だから、真上への逆回転のスピンがかかる。しかし、日本の(いや世界中の)ほとんどの投手は、わずかなりとも、切る軸が斜めになっていると思うのだ。だから、吉田のストレートのような伸びにはならない。やはり、かなり特別な才能と言うべきである。

 

 夏の甲子園は、あいかわらず楽しく見たのだが、打者では、大阪桐蔭の藤原恭大が印象に残る。インコースを思い切り引っ張ったときの打球の強さには、目を見張るものがあった。どこかの対戦選手が、「新幹線みたいな打球だった」と言っていたが、たしかに、そう言いたくもなる。しかも、足が速い。プロでは、1番を打つのでしょうね。

 

 蛇足だが、吉田のストレートを「新幹線みたいだった」と表現する相手打者もいた。野球選手は、ものすごい剛球をみると、しばしばこの表現をつかう。たぶん、反対ホームを通過していく新幹線のイメージなのだろう。

 

 ところで、U18アジア選手権の日本対韓国戦を見ていたら(9月5日)、藤原は2安打していた。これがまた、目の覚めるような当たりだったのだが、彼の構えから右足のあげ方を見て、きづいたことがある。どこかで見たような気がしてきたのだ。誰だろう、とさんざん考えて、わかりました。糸井嘉男(阪神)にそっくりなのですね。体型はだいぶ違うけれど。俊足ということをふくめて、彼は、糸井のような選手に成長するのではないか。

 甲子園を見ていて、じつは、妙な安心感にとらわれている自分にも気付いた。これはなんだろう、とよくよく考えてみると、ようするに、プロ野球と違って、リクエスト制度がない。つまり、審判の判定は絶対、という了解に支配された空間なのである。

 

 もちろん、審判が無謬であるなんてことはあり得ない。高校野球だろうがプロ野球だろうが、誤審はある。問題は、ここに、プロ野球のように科学的な正しさを持ち込むことの是非である。

 

 なにしろアメリカが導入したことだから、この制度は改善・発展することはあっても、廃止されることはあるまい。しかし、「きわどいプレーはとりあえずリクエスト」という、安直なリクエストが多すぎませんか。審判も拒否はできないから、いかにも従順に検証に入る。

 

“科学の眼”で入れ替わった勝敗

 

 8月の下旬、広島-東京ヤクルト戦で立て続けに面白いシーンがあった。

 まず、8月21日。5-4と広島1点リードで迎えた9回表。2死一、二塁からサードゴロでヤクルト万事休すかと思われた。ところが、三塁手上本崇司がまさかのファンブル。突っ込んできた二塁走者にかろうじてタッチして、判定アウト。試合終了。広島勝利。

 

 ところが、ヤクルト側がリクエスト。これ、じつは、見ている限り明らかにセーフだったのだ。案の定、判定が変わってセーフ。ここから、ヤクルトは同点に追いつき、延長10回には、なんと一挙5点を入れて、結局10-5と逆転勝利したのでした。

 

 そして8月23日の同カード。8-5とヤクルトリードで迎えた9回裏。広島は、1死から1番・野間峻祥が内野ゴロ。俊足を飛ばして一塁を駆け抜けたが惜しくもアウト。緒方孝市監督は当然のようにリクエスト。これも、じつは、誰の目にもセーフだった。やはり判定が覆り、一塁セーフ。カープはこの内野安打を足がかりに、丸佳浩の3ランが飛び出し同点。続く鈴木誠也がなんとサヨナラホームランで、広島9-8の大逆転勝利となった。

 

 これ、野間がアウトだったら、おそらく逆転劇は起こらなかっただろう。21日も、判定通りならその時点で試合は終わっていた。つまり、リクエスト制度の科学的に正しい判定のおかげで、勝敗が入れ替わったのである。

 

 だから、合理的でいい、とひとまずは言えるだろう。しかし、感覚として、最初から正しい判定が下ってもおかしくないケースだった。最終的な判定を科学に委ねるとしても、だからこそ、そのぎりぎりまでは、人間の目で決める、という覚悟が、選手・監督の側にも、審判の側にも、もっと求められるべきだと思うのだが。

 

 リクエストのない甲子園に、むしろ安心感を覚えたのは、審判が絶対的に正しいからではない。このAIの時代に、人間の力を信じるしかないという、考えようによっては絶望的な状況で、対戦チーム双方の合意でつくりあげる高校野球の試合という営為に、懐かしさを覚えた、というのが正確かもしれない。

 

 吉田の伸びるストレートの魅力から、話は遠く離れてしまった。しかし、あえてこじつけるなら、「伸びる(浮き上がる)ボール」というのは、投手の、あるいは人類の永遠の夢である。

 

 人々が、この夏、吉田に熱狂したのは、彼のどこか初々しい容姿だけが原因ではあるまい。ストレートが、ゴーッと音をたてて伸びるような感覚が、快感だったからである。

 

 それは、科学という「現代の神」に挑戦する、あるいは抗おうとする、人間の根源的な欲求のささやかな発露だったのではないだろうか。

 

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール

1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。


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