立川新は川之江柔道会に入門したばかりの頃は3歳の時だった。体が小さく悔しい思いをすることが少なくなかった。負けず嫌いの少年は父・昭宏の課したクライミング、走り込み、足指の筋力強化、パワーアンクルの装着といったトレーニングを黙々とこなした。

 

(2018年9月の原稿を再構成しています)

 

 これらの地道な努力が成果として表れたのは小学校3年生の時だった。11月、広島県廿日市市で行われた第30回西日本少年柔道大会で個人戦小学3年生の部で見事、優勝を果たす。この時の立川の様子を父は語った。

 

「とても嬉しそうでした。3年生までで、これほど大きな規模の大会で優勝できたのは、確かこの時が初めてだったような気がします」

 

 6年時に臨んだ長野県松本市で行われた第6回全国小学生学年別大会では50キロ級に出場した。決勝ではバルセロナ五輪71キロ級金メダリストの古賀稔彦の長男、颯人と対戦。同学年のライバルに敗れ、結果は準優勝だった。約1カ月後、北九州市長旗西日本少年大会を制した。柔道の技術やフィジカルの向上とともに、大規模な大会でも優勝争いを演じるようになると、立川の将来の目標ははっきりとしたものになる。

 

 立川に「いつから世界やオリンピックを意識するようになったのか」と聞くと、こう返ってきた。

「昔からオリンピックに出たい、優勝したいという夢があったんです。これはずっと変わらない。小学生の時から思っていたんです」

 

 父が、幼少期から立川にオリンピックを意識付けたのだろうか。父・昭宏はこう語った。

「小さいところで閉じこもっていても仕方ない。だから新には“意識は高く持てよ。新が上を目指すのなら応援してあげる”と言いました。でも、私から“絶対、オリンピックに出ろよ”とか“オリンピックで優勝しろよ”なんて言ったことないですよ(笑)」

 

 意識を高く持て、と言われた結果、立川は自発的にオリンピックを意識し始めたのだ。

 

 川之江南中学ではなく、北中に進学

 

 オリンピックに出場することを目標に定めた立川は中学進学の時期を迎えた。家からは、川之江南中学が一番近かった。だが、川之江北中学の方が柔道は盛んだった。立川が通っていた川之江柔道会は北中に近かった。同柔道会の指導者も外部コーチとして北中柔道部を指導していた。こういった理由が重なり、立川は北中に進むことを決意した。

 

 立川は北中柔道部で、今まで以上に柔道に打ち込むようになる。日々の部活に加えて、水曜日、木曜日、土曜日、そして強化練習日の日曜日には川之江柔道会の道場で汗を流した。

 

 まず、部活の練習を終えて、午後6時くらいに帰宅。夕食を取れる時もあれば、取れない時もあったという。そして、7時から10時まで道場で練習に打ち込んだ。

 

 父親に中学時代の立川の様子を聞くと「柔道にほとんどの時間を費やしていました。他のことをやっていたっけなぁ(笑)」と振り返る。立川も「中学時代はもう、家に帰っても夕食を食べて、お風呂に入って、寝るだけでした。他のことはほとんど覚えていないですねぇ。それくらいがむしゃらに柔道に打ち込んでいました」と述懐する。

 

 立川は中学2年時に、愛媛県中学新人選抜体重別大会の60キロ級を制したのを皮切りに「これ以降、負けてないと思います」というほど、負け知らずの柔道家になる。結果を残しても、立川の柔道に対する姿勢は真摯だった。周囲からのアドバイスにきちんと耳を傾け続けた。

 

「周りからのアドバイスを疎ましく思っているような様子はなかったです。思っていたとしても、アイツは顔には一切出さなかったです。周囲のアドバイスを聞かないようでは、強くなれないと本人もわかっていたんだと思いますよ」(父・昭宏)

 

 その甲斐もあり、中学3年時で迎えた全国中学校柔道大会では66キロ級で頂点に立った。中学時代を有終の美で飾った立川が選んだ進路先は、柔道部が全国レベルの新田高校である。彼は1年生の時に、ライバルと再戦することになるのだった。

 

(第3回につづく)

 

<立川新(たつかわ・あらた)プロフィール>

1997年11月30日、愛媛県四国中央市生まれ。階級は73キロ級。川之江柔道会-川之江北中-新田高-東海大。3歳で柔道を始める。新田高3年時には高校選手権とインターハイで優勝を飾る。東海大進学後、1年時から講道館杯を連覇。昨年のグランドスラム東京でも王者に輝き、73キロ級で急速に存在感を高めている。組手の強さが最大の武器。身長170センチ。得意技は大内刈り。

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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