今日現在、広島カープのマジックナンバーは4。3連覇は時間の問題である。今年は地元での胴上げが濃厚だ。

 

 広島の街を「カープ」の3文字を視界に入れることなく歩くのは、まず不可能である。ユニホームをはじめとする関連グッズだけではない。カープロード、カープバス、カープ電車、カープタクシー、カープビル、カープ理容院、カープソース……。もう、そこらじゅうカープだらけである。「ノーカープ ノーライフ」。それが広島市民・県民、そしてカープファンの生活風景だ。

 

 では「カープ」なるニックネームが初めて登場したのはいつだろう。調べたところ1949年9月28日付の中国新聞紙上に次のような見出しを見つけた。<チーム名は“鯉”広島プロ野球団誕生か>。記事にはこうある。<平和都市広島にプロ野球団を設置する計画は、地元広島および在京県出身者の間で進められているが、去る二十二日設置の意思表示を日本野球連盟正力会長、鈴木(竜)社長、鈴木(惣)副社長に行い、大体の構想がなったので、二十八日谷川昇氏は代表として正式手続きをとることになった。なおチーム名はカープ(鯉)と決定した。>

 

 だが「カープ」に決まるまでには紆余曲折があった。ブラックベアー、レインボー、ピジョン(鳩)なども候補に上がり、侃々諤々の議論が行われたようだ。

 

 カープの名付け親は球団創設に尽力した谷川昇である。谷川は広島を地盤とした衆議院議員で、戦後は公職追放の身にあった。そのため表に出ることは極力、避けていたと言われる。

 

 なぜカープだったのか。谷川は県立広島中(現広島国泰寺高校)時代、鯉城クラブという名のサッカー部に所属しており、そこに端を発するというのが定説である。

 

 こぼれ話もある。古い写真にはユニホームの胸マークが「CARPS」になっているものもある。鯉は単複同形名詞のはずだが……。このユニホーム、今ならお宝である。

 

 決め手となったのは谷川の熱弁だった。「原爆で焦土と化した広島が復興するには若い人たちの力が必要だ。滝でものぼる鯉(カープ)こそは復興のシンボルにふさわしい」。没後63年、広島の街じゅうにあふれ返る「カープ」の3文字。名付け親は草葉の陰で、さぞ喜んでいるに違いない。

 

<この原稿は18年9月19日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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