カープが原爆の町・広島に誕生できたことは広島市民・県民に、これ以上ない勇気と希望を与え、復興に向かう明日への生きる活力となった。これは今さら言うまでもないことだ。では、なぜカープが誕生したのか--。考古学第6回はカープ誕生の「根本」について述べてみたい。

 

 米国に倣い2リーグを

 カープ誕生のひとつの要因としてあげられるのが、成長の一途を辿っていたプロ野球人気だ。プロ野球の観客動員数は、昭和21年には156万人、翌22年には237万人、さらに23年には364万人……と、右肩上がり。この勢いは留まるところを知らず、昭和24年には459万人を動員した。まさに動員数はうなぎのぼりで、「この人気は商売になる」と、目を付け始める企業も出てきた。

 

 まず、毎日新聞の社長・本田親男だ。大阪を拠点とする毎日新聞はかねてから東京の読売新聞への対抗意識が大きかったことに加え、販売部数の拡大を目論見、プロ野球人気に便乗しようと参入を考え始めた。

 

 ときを同じくして昭和24年4月15日、プロ野球の生みの親とされる正力松太郎が日本プロ野球連盟の総裁に就任した。その時の挨拶でいくつかの公約が出され、その一つがこうだった。「アメリカにならって2リーグ制をとる」。この正力の発言を受けて参入に名乗りをあげたのが先の毎日新聞であり、近鉄、西日本新聞、さらには大洋漁業などが続いた。

 

 また参入はならなかったが朝日新聞は朝日レッドソックスとして名古屋を中心に参入を検討し(『野球と正力』室伏高信著・講談社より)、その他、別府星野組(『球団消滅』中野晴行著・ちくま文庫より)や、小田急(『V1記念広島東洋カープ球団歴史』中国新聞より)ら、多くの企業がプロ野球に目をつけていた。

 

 ときは終戦から4年後の昭和24年--。多くの企業が戦後復興へ向けた日本経済の急成長の息吹を感じ、プロ野球経営に進出する並々ならぬ意欲を持っていたことは、上記企業の動きからも良くわかる。経済的な復興、さらに企業アピールの広告塔としてプロ野球チームを持つことは大変魅力的なことだったのである。

 

 こうした全国的なプロ野球熱の高まりは当然、野球王国・広島と無縁ではなかった。広島においては終戦直後から社会人野球の鯉城園や、金子製作所、さらに広商OBや広陵OBらがプロに向けて動き出していた。彼らの野球熱についてはこれまでの連載で紹介した通りだ。灯っては消え、燃え盛っては鎮火した「広島にプロ野球を」という熱は、いよいよ昭和24年、一気に燃え上がることになる。

 

 さて、カープの歴史の中で「球団生みの親」として最初に名前があがるのが、元代議士で当時、公職を追われていた谷川昇である。

 

 谷川は東京市役所勤務、山梨県知事、さらに内務省保安局長を経て、昭和22年に衆議院議員に初当選した。しかし戦時中の大政翼賛会での活動によってパージにかかり、職を追われた身であった。

 

 その谷川に「広島にプロ野球球団を作ってはどうか?」と勧めたのが、戦前、名古屋金鯱軍の理事を務めた山口勲だった。山口の言葉をきっかけに広島のプロ野球参入に向けて立ち上がった谷川は、友人・知人を頼ってプロ参入の道を模索していった。そして谷川はかねてから親交の深かった毎日新聞社長・本田に、プロ野球参入を依頼するのだった。

 

 過去の記事にはこうある。
<谷川氏はさっそく親交のあった毎日新聞本田社長に加盟を依頼した>(『広島カープ十年史』中国新聞昭和34年12月3日付)

 

 セ・パ分立の荒波の中で

 本田は谷川からの申し出を引き受けたが、この時期、本田は大きな仕事で忙殺されていた。大きな仕事とはプロ野球新規参入を巡る既存球団との折衝や調整だった。

 

 昭和24年のシーズン、プロ野球は巨人、阪急、大映、南海、中日、大阪、東急、太陽の8球団1リーグ制であった。8球団は戦前戦後、職業野球がまだ社会的な地位を得ていない時代から苦労し、リーグを切り盛りしてきたという自負があった。そこに「儲かりそうだから」と新規参入企業が現れても、「はい、そうですか」というわけにはいかないのが本心だった。すなわち既存球団で新規参入に賛成、反対で意見が分かれたのである。

 

 新規参入を認めたのは大映、東急、南海、阪急の4球団。これに対して「しばらくは1リーグ制のままでいき、その後、2チームだけ新規参入させる」という意見の球団が3つ。その筆頭が読売グループの巨人で、中日、大陽がこれに従った。大阪は当初、新規参入に賛成派であった。大阪=阪神電鉄は、マスコミである毎日に遠慮があった。毎日の反対に回り、ひとたび鉄道事故が起これば……。「大マスコミを敵に回すのは得にならん」との配慮があったとしても不思議ではない。だが阪神には「ドル箱カードの巨人戦を失いたくない」という別の思惑もあった。

 

 本田はこうした態度保留の阪神を説得することに奔走していた。結局、阪神は反対派に回り、新規参入賛成球団と毎日らがパシフィック・リーグを結成、翌25年からセントラル・リーグ、パシフィック・リーグの2リーグ制でプロ野球がスタートすることとなった。

 

 セ・パ分立となれば、毎日の本田に加入申請を依頼していた広島は、毎日とともにパ・リーグ入りとなったはずであった。
<この線が順調に進んでいたら、広島はパ・リーグ入りしていたわけである」(『広島カープ十年史』中国新聞昭和34年12月3日付)

 

 では、なぜカープはパ・リーグではなくセ・リーグに加入したのか。本田があまりの忙しさから、谷川から依頼された広島のことになど気が回らず、簡単に言ってしまえば「すっかり忘れていた」のである。セ・パ分立という歴史の荒波の中で、運命はカープをパ・リーグには導かなかったのだ。

 

 結局、谷川は別のルートを頼りセ・リーグに加入申請を実施した。このセ・リーグ入りがカープ存続に大きく寄与したことは言うまでもない。

 

 のちにドル箱ともいわれる巨人、阪神といった人気球団との試合があり、これは黎明期の観客動員に貢献し、さらに巨人戦では多くの放映権料を得た。歴史に「もしも」はないが、もし、カープがパ・リーグに加入していたら--。昨今の「実力も人気もパ」とは程遠い、昔のパ・リーグでは球団存続もままならなかったのではないか、と。いや、また別のドラマがあったかもしれない……。

 

 次回のカープ考古学は、この谷川を始め、山口、河口豪ら、カープ生みの親とされる3人の動きをまじえた創立準備委員会の動きをお伝えしよう。

 

【参考文献】 『野球と正力』室伏高信(講談社)、『セ・パ分裂 プロ野球を変えた男たち』鈴木明(新潮文庫)、『球団消滅』中野晴行(ちくま文庫)、『V1記念広島東洋カープ球団歴史』(中国新聞)、『カープ十年史』(中国新聞・昭和34年12月3日付)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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