カープの考古学も第7回目を迎え、いよいよカープ誕生に深く関わり、"カープ生みの親"ともいえる人物を取り上げていきたい。筆頭は創立準備委員長を務めた谷川昇である。今回の考古学では、カープの歴史の中であまり語られてこなかった谷川昇のルーツとして、谷川家を掘り下げる。カープ誕生へ向けた流れの中からは見えてこなかった裏舞台にあったものを探ってみよう。

 

 失意のどん底から一転

 カープ創立準備委員長を務めた谷川昇は、明治29年、賀茂郡志和村で谷川玉蔵の長男として生まれた。広島一中(現・広島国泰寺高)を卒業し、ハーバード大学院などで都市行政を学んだ。その後、帰国して東京市役所、さらに戦後には山梨県知事、内務省の保安局を経て、昭和22年、衆議院議員に初当選した。

 

 ところがこの当選のわずか2カ月後、戦前にかかわった大政翼賛会の活動がたたって公職追放の身となったのだ。いわゆるパージにかかり活動が制約された谷川は、傷心の身でありながらカープ立ち上げに臨んでいくことになる。

 

 占領下にあった当時の日本では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に目をつけられた主要人物らは、谷川のように、ことごとく要職から外された。

 

 あの正力松太郎も幾度かの処分を受けている。ただ、正力は立場を変えながら、役職に留まっている。読売という看板、その巨大な組織に支えられてのことであろう。しかし、谷川にはそのような後ろ盾はなかった。郷里・広島の復興のためにと立ち上がり、そして念願の議員になり「さあ、これから」というときに活動を制限され、志を奪われたのだ。その心中は如何ばかりであったか想像に難くない。

 

 当時、谷川は当選を果たしながらも無職の日々をすごした。『カープ30年』をあたれば、しばらくの間<家に閉じこもったきりの生活>だったという。

 

 しかし、一度は衆議院に当選した身であり、郷土の期待を背負った人物である。それを周囲が放っておくはずがない。53歳の谷川に、戦前のプロ野球で金鯱軍の理事をしていた山口勲が「球団設立」を勧め、結果、谷川は失意の底から復活。郷土愛にかられ、カープ立ち上げに奔走することになる。

 

 球団設立のために文字通り我が身を削った谷川だったが、各方面からの内偵が進んだこともあり、その立場は追い込まれたものとなった。カープ誕生後、功労者ながら周囲からの助言もあって、結局、カープからは手を引くことになる。この谷川がカープから退く際のいきさつについては、のちの連載で詳しく述べることとしよう。

 

 さて今回の考古学は、谷川昇のルーツを探っていく中で、父・玉蔵にまでさかのぼってみたい。無職の谷川がカープ設立に邁進できたのは、物心両面を支えてくれた父・玉蔵の存在が大きかったのである。

 

 父のアメリカンドリーム

 昇の父、玉蔵は、まだ維新の熱も冷めぬ明治7年に生まれた。新進気鋭の性質を持って生まれ、開拓者精神も旺盛であったのだろう。彼は明治33年、カナダ・バンクーバーへ渡航し、そこから才覚を表すことになる。当時、日本は国をあげての移民政策に乗り出しており、移民県とされた広島県民の多くは、アメリカの西海岸地方に移り住んだ。玉蔵もカナダからアメリカに入り、シアトルからカリフォルニア州サクラメントへ。さらに、そこからウォールナッツグローブへと移り住んだ。広大な大地に夢を抱いて、西海岸を転々としたのである。

 

『在米廣島懸人史』には、この後、フローリン地方に行き、実に様々な事業に従事したとある。<(編注・玉蔵は)フローリンに転じ、湯屋、玉場、理髪所、を兼営>と書かれている。湯屋はそのまま銭湯であり、玉場はビリヤード場だ。今でいえばスーパー銭湯、ビリヤード場にヘアサロン。それが同一施設にあったのならば、現代でも通用する複合的なリラクゼーション、交遊施設だったかもしれない。あくまでもこれは想像の域であるが……。

 

 また農業にも手を出し、さらに明治44年には株主という形でブドウなどの果樹園の経営にも携わっている。玉蔵はアメリカの地であらゆるものに触れ、事業の才能を身に付けていった。

 

 玉蔵を家長とする谷川家はこの翌年、日本へ一時帰国した。長男・昇の学業を考えてのことで、このときに昇を広島一中へ進学させた。子供の教育が一段落したと見た玉蔵は、大正3年、再び、夫人とともにアメリカへと渡った。<大正三年更に夫人を伴ひ再び渡米する>(加州廣島懸人發展史)、これは人生の覚悟を決めた渡航であったに違いない。アメリカの大地と水が合ったのだろう。玉蔵は以後、事業家として大躍進していくのだった。

 

 この地で玉蔵が目をつけたのはスーパーマーケットである。日本では、昭和33年、中内功がダイエー神戸三ノ宮店をオープンさせ、流通革命を起こした。ところが、玉蔵は大正時代に渡米し、本場アメリカの流通業で財を成した。日本人事業家としてまさに先駆者であった。

 

 街道沿いに建てられた玉蔵のスーパーマーケットは、<同地方における最大最古のもの>(『在米廣島懸人史』)と記されている。明治時代からの移民県である広島県人にとって「一旗揚げた」シンボルであり、かのスーパーマーケットの写真は『在米廣島懸人史』に掲載されており、ひときわ誇らしく輝いて見える。「T・TANIKAWA CO.」とペイントされた大看板には目を見張るものがあり、店内はずらりと食料品を始め、数々の雑貨が並んだ。フローリン地方では最大の規模であり、これで玉蔵は一躍名を上げた。

 

 当時、玉蔵の個人の評判はこうだった。

<同地方に於ける押しも押されもせぬ實業家として福徳兼ね備はり、一般の評判すこぶる可である>(『在米廣島懸人史』)

 

 谷川家の番頭さん

 様々な役職や肩書を持ち、同じく日本からの移民らの世話も買って出るほどだった。彼のように、勤勉で昼夜を分かたず働き続けた日本人実業家は数多くいたが、玉蔵も含めて多くは現地では決して楽な暮らしではなかったという。成した財は、日本への仕送りに充てられていたからである。

 

 母国を離れ、アメリカンドリームを成し遂げて一旗揚げた実業家は、アメリカで儲けたお金でもって日本で待つ家族の生活を支えていた。財を成すための苦労は如何ばかりであったか……。それでも家族のために地を這ってでも、仕事をまっとうしたのだ。これは余談であるが、母国のためだけに働く日本人を、現地のアメリカンが快く思うはずはなかった。日本人排斥運動なるものまで起こり、労働環境や生活面で著しい制約を受けたという。

 

 筆者は谷川家についてよく知る豊島重文(元参議院議員、故・谷川和穂氏秘書)に話を聞いた。当初は書生として住み込みから始まり、その後、秘書となり、57年間と長きに渡り谷川家を支えた人物である。ここからは、豊島重文の証言をもとに話を続けよう。

 

 アメリカの玉蔵から送金された金は、日本銀行まで受け取りに行くのだが、それは谷川昇の夫人・スミ枝の仕事だった。銀行に通った日々のことを幾度か豊島に語って伝えたという。以下、豊島の述懐である。

 

「カバンの中には、札束がどっさりであったといいます。『ボストンバックの中は、1ドル紙幣がいっぱいになるほどだったの』と話されていました」

 

 スミ枝夫人からの話を、豊島は心震えながら聞いたという。

 

 アメリカでなした財を、玉蔵は一人息子の昇のために送り続けた。それは生活費であり、はたまた選挙資金にもなった。そしてパージにかかり役職を追われた昇が、カープ設立のために走りまわることができたのも、玉蔵からの仕送りのおかげであった。

 

 さて冒頭でも触れたが、谷川昇はアメリカの大学院に留学した経験を持つ。このときに得た知見が、カープ設立において県や市、個人が出資するチームという発想にも影響しているのである。現在、姿形を変えながらも、プロ野球で唯一、親会社を持たず独立採算制で経営し続けるカープの事業の礎として生き続けている。谷川昇の残した経営のレガシーについても、のちの連載でじっくりと掘り下げていきたい。乞うご期待。

 

【参考文献】 『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社)、『在米廣島懸人史』竹田順一(在米廣島懸人史發行所)、『加州廣島懸人發展史』開原榮(サクラメント市 よろづ商店出張所)、『北米鉄道大鑑』籾井一利(北米武徳会)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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