木付優衣は数ある強豪校から兵庫の日ノ本学園高校を選んだのか。彼女は当初誘いを受けていた数校の中から、大阪のある高校に進むつもりだった――。

 

愛媛新聞社

 

 

 

 

 進路を大阪から兵庫に軌道修正したのは、当時日ノ本学園の監督を務めていた上嶋明氏に会ったからだ。日ノ本学園を訪れた際、進学先について考えていることを話すと、上嶋氏に「甘い!」と叱られた。木付は初対面で怒られたことに驚いた。その一方で同氏の熱意も感じた。「1学年上の先輩がアンダー世代の代表候補に入っていたので、先輩たちからレギュラーを奪って試合に出られるようになれれば自分がまた代表に戻れると思ったんです」

 

 愛媛の親元を離れ、兵庫での寮生活が始まった。

「ホームシックになり大変でした。でも今となったら良い思い出です。慣れるまで1年目は苦労しました」

 それでも明朗快活な性格で徐々に馴染んでいった。

 

 1年から3年間、木付の担任を務めた田邊友恵監督は、入学当時はサッカー部のコーチ、途中から監督に就いた。ピッチ内外で彼女を指導した田邊監督の木付の印象はこうだ。

「入学する前から彼女のことは知っていました。アピール力の強い子でしたね。それは授業でも積極的で、グイグイきていました」

 

 今も彼女の売りである声は、高校時代も際立っていた。田邊監督は「別格。選手として見本だと思います」と絶賛する。

「彼女の良さは味方へのコーチングのみならず、自分で自分と会話できる点です。ミスをそのままにせず課題解決に努められる。だから身体能力が高いわけでもない中で、あそこまで成長できたのだと思います」

 

 順調にアピールを続けた木付は、1年の夏には試合に出るチャンスが巡ってきた。2012年度から女子サッカーの実施がスタートした全国高等学校総合体育大会(インターハイ)。その関西予選への出発前日、練習中に指をケガしてしまう。痛めた箇所は腫れてキャッチングすらままならない。病院に行くと、剥離骨折と診断された。掴みかけた定位置はスルリとこぼれ落ちたのだった。

 

 関西予選で出場日ノ本学園はインターハイを制した。ケガの木付はチームメイトたちのサポート役に回ったものの、「心の底から応援していたと言いたいですが、複雑な想いはありましたね」と胸の内を明かす。

 

 それでも自らを「ポジティブマン」と評する木付は、秋にチームに戻ると冬には正GKの座を手に入れた。全日本高等学校女子サッカー選手権大会は3位入賞を果たした。さらには「3年生と一緒に卒業するつもり」との想いで臨んだ2年時のシーズンでインターハイと選手権の2冠を達成する快挙を成し遂げた。インターハイは3年時にも初日が雷雨により順延されたことにより日程が短縮。村田女子との同校優勝で日ノ本学園は連覇を達成した。木付は高校選手権で5試合4試合を完封し、わずか1失点で4年ぶりの優勝に貢献した。最終学年となった2014年度も2冠。2年連続2冠という圧倒的な成績を残した。

 

 最後に果たした大役

 

 木付の競技人生を振り返る時、避けて通れないのが3年時の高校選手権決勝だろう。ノエビアスタジアム神戸での宮城県代表・常盤木学園戦である。女子サッカーの名門中の名門。今日まで17度の全国制覇を誇り、現在のなでしこジャパン(女子サッカー日本代表)の主力鮫島彩、熊谷紗希らを輩出してきた。

 

 全国大会で何度もしのぎを削ってきた宿敵との一戦。ところが試合開始から10分も経たぬうちに木付に試練が訪れた。裏に抜け出してきた相手FWと接触。顔面を強打し、そのまま担架で運ばれた。約10分の中断の末、ピッチに帰ってきた。「異例の長さだったと思います」(田邊監督)。逆に言えば、それだけ待ったことは木付への信頼が相当厚かったと見ることができる。

 

 トレーナー、ドクターのゴーサインが出た。「本人も『大丈夫です』と言っていたので代えませんでした。結果として大きなケガだったので、(交代させなかったことは)良い判断と思わないですが……」。田邊監督は背番号1をピッチに残す決断をした。

 

「声を出すのも鼻に響くので大変でした。応援の声も大きいので、それに負けじと出そうとしてフラッとすることもありました。鼻はどんどん腫れてきていましたし、結構ぎりぎりだったと思います」

 のちに鼻骨の骨折が判明したが、木付は最後まで集中力高く守り、ゴールネットを割らせなかった。90分を戦い抜いてもつかなかった決着は、10分ハーフの延長戦でも同じだった。そして勝敗の行方はPK戦にもつれこんだ。

 

 後攻の日ノ本学園が3人全員決めたのに対し、先攻の常盤木学園は1人目がシュートをバーに当て、2人連続で決めた。4人目のキッカーがペナルティースポットに立ち、放ったシュートを木付は左に飛び付いて弾き出してみせた。

 

 早稲田大学進学後、昨年の皇后杯3回戦でINAC神戸レオネッサPK戦勝利に貢献したこともあり、木付にはPKに強いイメージがある。しかし、本人は「PKは嫌いでした」と意外な過去を語り、田邊監督によれば「私もPKが巧いイメージはないですね」という。なぜならばPK戦を前に彼女をベンチに引っ込めたこともあるからだ。

 

 木付はキッカーの助走に入る角度と、軸足のつま先の向き、身体の開く方向の3点を注視した。このポイントは木付が、PKを得意とする知人からアドバイスを受けて気を付けるようになった。常盤木学園戦でのPKストップは、苦手をそのままにしない彼女の努力の成果とも言える。後攻の日ノ本学園は4人目がきっちりと決め、2年連続2冠の偉業を達成した。

 

 木付が経験した5度の全国制覇。レギュラーとしては4度のVに貢献したが、優勝決定の瞬間までピッチに立っていたのは、この時のみである。

「最後までやらせて欲しかった。その想いを汲んで私を使ってくれた田邊先生に感謝しています」

 

 木付は高校の卒業式には卒業生を代表して答辞を任された。「私なんかに読ませていただいて幸せでした」。お世話になった人々への感謝の想いを述べた彼女の真っすぐな言葉に、父・宏一や田邊監督は強く心を打たれたという。田邊監督は木付の顔も見られぬほど感動した。

 

 しかし、田邊監督によれば、この話には後日談があった。

「答辞の指導を担当した学年主任の先生は、“もう少し全体のことを話しなさい”と教えたそうなんです。でも木付は自分が準備していた内容の言葉でしゃべったようなんです」

 最後まで自分らしさを貫く、彼女らしいエピソードである。

 

 有終の美を飾り、日ノ本学園を卒業した木付は次のステージをなでしこリーグに定めた。1部のジェフユナイテッド市原・千葉レディースに入団し、さらなる高みを目指したのだ。だが、彼女を待ち受けていたのは前途洋々な未来ではなかった。

 

(最終回につづく)

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木付優衣(きつき・ゆい)プロフィール>

1996年4月11日、愛媛県松山市出身。小学2年でサッカーを始める。中学からはAC MIKANでプレー。全国大会出場も経験した。兵庫の日ノ本学園進学後は、2年連続2冠を成し遂げた。高校卒業後は早稲田大学に進み、なでしこリーグのジェフユナイテッド千葉・市原レディースに入団。大学2年からは早大ア式蹴球部女子部に移籍し、主力として活躍。正GKとして全国大学女子サッカー選手権大会3連覇達成に貢献している。3年時にはユニバーシアード競技大会で日本代表に選ばれ、銀メダルを獲得した。身長164cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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