木付優衣は集大成の大会に臨む。今月25日に初戦を迎える全日本大学女子サッカー選手権大会(インカレ)。学生生活最後の試合ではなく、約15年続けてきた競技人生に終止符を打つつもりなのだ。

「優勝は目指すのはもちろんですが、この大会で選手を終えるので1試合でも多くサッカーしたい。最後の最後までサッカーをやり続け、笑えるチームでありたいです」

 

愛媛新聞社

 

 

 

 

 千葉での苦闘

 

 2015年春、日ノ本学園高校を卒業した木付は早稲田大学に入った。当時の所属はア式蹴球女子ではない。この年からなでしこリーグ1部のジェフユナイテッド市原・千葉レディースに入団していたからだ。クラブから誘いを受けたとはいえ、千葉にはなでしこジャパン(女子サッカー日本代表)の守護神・山根恵里奈がいた。

 

 木付からすれば、当時のなでしこジャパン正ゴールキーパー(GK)とのポジション争いは望むところだった。「ここで試合に出られるようになれば日本代表になれる」。高い志を持って千葉を選んだ。「はじめはついていくので精一杯でした」。大学生活との両立も苦心したという。

 

 しかし、千葉で公式戦の出場は叶わなかった。環境の変化以上に悩まされたのは、ケガの多さだった。高校3年時の全日本高等学校女子サッカー選手権大会決勝での鼻骨骨折から始まった2015年。本人は「厄年だったと思います」と振り返る。4月にヒザの靭帯を痛めた後も、小指脱臼、ヒジを骨折するなどグラウンド内外でのアクシデントに見舞われた。

 

 千葉での2年目を迎えようとしていた木付は開幕戦を前に千葉を離れる決意をした。「シーズンイン直前でしたし、ジェフには大変迷惑をかけたと思っています。あの頃の私はまだ子供で頑張れなかったなと反省しています。社会人の立場としては絶対してはならなかったこと」。決断のタイミングなど今では反省することもあるが、当時はその選択肢しか考えられなかった。サッカーを辞めることも脳裏に浮かんだほどだった。

 

 移籍先は通学していた早大のア式蹴球部女子部となった。先輩になでしこリーグから移籍してきた選手もいた。受け入れ先としては申し分なかった。木付が初めて練習に参加した日にはゲーム形式だった。「サッカーを楽しいと思えた」。プレーに飢えていた彼女が、自らの選択を間違っていなかったと思えた瞬間でもあったのだろう。

 

 木付は早大のア式蹴球部公式サイトのア女子日記で、当時の思いをこう述べている。

<後悔がないと言えば嘘になる。でも、私にとって移籍の選択は、自らの手で、そして仲間のおかげで、胸を張って正解だったと思えている>(2018年12月3日)

 後ろを振り返って立ち止まるよりも、踏み出した一歩から逃げたくない。

<私は間違えることを怖がって生きていくよりも、自分の信じた道を選んだ道を正解だったと思える生き方をしていきたい>(同前)

 

 現役引退の理由

 

 早大ではすぐに定位置を掴んだ。決勝では名門・日本体育大学を相手に好セーブを見せるなどインカレの2連覇に貢献した。強い思いを持って臨んでいた大会だった。2学年上にはキャプテンを務めるGKがいたが、木付の控えに回った。

「すごく仲良くしてくれた先輩で“絶対日本一のキャプテンにする!”と思って戦っていました。絶対悔しいはずなのに、私をサポートしてくれて、笑顔で『行ってこい!』と送り出してくれた。その姿を見て、“この人を絶対勝たせたい”と任務があると感じていました」

 

 3年時にもインカレを制し、早大は3連覇を達成した。台湾・台北で行われたユニバーシアード競技大会の日本代表を8人輩出し、皇后杯ではなでしこリーグのINAC神戸を破っていた。優勝候補の大本命として挙げられており、木付は「2年の時とほぼ同じメンバーでしたし、負ける気はしなかった」と振り返る。彼女にとって、3年時のシーズンは充実のシーズンだったと言えよう。

 

「納得のいく試合は基本的にあまりないです」と語る木付が、例外に挙げるのが8月のユニバーシアード競技大会の決勝戦だ。プロ選手もいたという優勝候補相手のブラジル戦で延長の末、0-1で敗れた。「身体能力の高い相手に思い切り飛び出していけた。最終的にはやられましたが、トライできたという部分で納得のいく試合。悔しいですけど、サッカーを楽しめました」。惜しくも日本の初優勝は手にできなかったが、胸を張れる銀メダルだった。

 

 木付が大学限りでの現役引退を決めたのは、プレーで限界を感じたからではない。なでしこリーグのチームからオファーもあったという。3年時のユニバーシアードで世界と戦う楽しさも知った。続ける選択肢がなかったわけではない。だが、選んだ道はサッカープレーヤーではなく、教員という新たな世界に踏み出すことだった。

「サッカーを辞めることに対しては周りからも驚かれます。教員を諦め競技を続ける、サッカーを辞めて教員になる。どちらを選んでも後悔はしたと思うんです。だから自分が決めた道を、後悔しないように生きていくしかない」

 

 早大では教職課程を履修していた。

「大学の模擬授業を受けた時にGKをやっている感覚と似ていると感じました。捌いて観察をする。“楽しい”と思いました。教育実習も『大変だった』と言う人も多いですが、自分はもう1回行きたい。“どうやったらわかるだろう”“どうやったら楽しんでもらえるだろう”と考えるのも好きです」

 自然と“教員になりたい”という想いは膨らんでいった。「“できた!”という瞬間の顔が好きです」。人に教える喜びを知り、教員試験に受かったことにより、彼女は決断した。

 

 教育実習は母校の日ノ本学園へ行った。

「能力の高さを見せつけて帰っていきました」と、うれしそうに話すのは、高校時代の恩師・田邊友恵監督だ。

「先生としてはもちろんですが、サッカー選手としても成長を感じました。あれほどコーチングできる子はあまりいない。改めて“すごかったんだなぁ”と思いました」

 

 集大成への想い

 

 行く先は決めた。あとは信じた道を突き進むのみだ。だからこそインカレは笑って終わりたい。GKとして1点でも失点を防ぐ。仲間たちと1試合で多く試合をするために――。

 

<人は誰だってどれだけ気をつけていたって、ミスをするし、間違えることだってある。間違えればそこから変えればいい。そこから学べばいい。ただ、失敗を恐れていては、その先の成功を手にすることはできない。

 だから私は残りの時間誰になんて思われようがこのチームのために、自分自身信じた道を肯定するために、1番後ろから伝え続ける。叫び続ける。私は間違えることを恐れない。

 自分の進んできた道を肯定していくために誰よりもアツく闘い続ける>(早稲田大学ア式蹴球部公式サイト「ア女子日記」2018年12月3日)

 

 川上嘉朗監督も“アツい”守護神に期待を寄せる。

「彼女は失点だけは許せないという子です。ディフェンス陣と一緒に無失点でチームを引っ張ってほしい」

 

 GKというポジションは試合に出られるのはほぼ1人。そしてピッチ上でただ1人、インプレー中に手を使うことが許されている。最後尾でプレーするGKを「孤独だ」と言う者もいる。だが木付の考えは違う。

「フィールドプレーヤーがGKに対して理解がないからそう感じるのかもしれません。自分は思わないです。GK仲間もいますし、孤独だと思っていないです」

 仲間と共に――。彼女はその想いが人一倍強いプレーヤーかもしれない。それがピッチ上で声を張り続ける姿に表れているように映る。

 

「何かしらサッカーには携わりたいです」

 最終的には指導者としてサッカーの道に戻ってくることもあるだろう。ベンチの近くで声を張り上げ、選手たちを鼓舞する。“誰よりアツく”。それが木付のフィロソフィーなのだ。

 

(おわり)

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木付優衣(きつき・ゆい)プロフィール>

1996年4月11日、愛媛県松山市出身。小学2年でサッカーを始める。中学からはAC MIKANでプレー。全国大会出場も経験した。兵庫の日ノ本学園進学後は、2年連続2冠を成し遂げた。高校卒業後は早稲田大学に進み、なでしこリーグのジェフユナイテッド千葉・市原レディースに入団。大学2年からは早大ア式蹴球部女子部に移籍し、主力として活躍。正GKとして全国大学女子サッカー選手権大会3連覇達成に貢献している。3年時にはユニバーシアード競技大会で日本代表に選ばれ、銀メダルを獲得した。身長164cm。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

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