昭和24年に正力松太郎が、プロ野球2リーグ制を提唱したことがきっかけでカープ誕生の気運が加速するのは、「カープの考古学」第6回にて述べた。これにより谷川昇らが創立準備委員長となって、広島にプロ野球の球団をとの動きを早めていくのである。

 

 ただし、きっかけは「2リーグ制提唱」だったが、広島にプロ野球チームが欲しいと願い、その行動を加速させることができたのは、何よりも広島にあった「野球熱」のおかげだ。この地は戦前から王国と呼ばれるほど野球熱が高く、数々の名選手を輩出していた。

 

 カープ誕生の前年、昭和24年のシーズン、プロ野球チームの中心選手は広島出身者が多かった。富美男(大阪)と隆男(大阪)の藤村兄弟をはじめ、柚木進(南海)、さらに白石敏男(のちに勝巳・巨人)らである。それだけではない。名将といわれる広島出身の監督も多かった。当時、球界には広島ブームなるものがわき起こっていたのだ。

 

 1リーグ制のころ日本プロ野球連盟の総チーム数は8チームで、そのうち広島出身の監督、もしくは広島にゆかりのある監督を合せると4名もいた。半分が"広島人"が率いるチームだったのだ。

 

<球界に広島ブーム。半分の監督が郷土出身>(カープ十年史・中国新聞社)との見出しも躍った。そこからは「広島がプロ野球を支えている」との誇りさえ垣間見える。地元志向が強く郷土愛にあふれる広島県民や市民が当時のプロ野球に熱狂しない訳はなかった。ちなみにゆかりの4人の詳細は、次のとおりだ。

 

 広島ゆかりの四名将

 大陽ロビンスの監督は石本秀一であった。プロ野球での監督実績では、申し分のない人物である。

 

 戦前の職業野球では、大阪タイガースを皮切りに、名古屋金鯱軍、大洋軍(後、翼軍)、西鉄軍で監督を歴任した。大阪時代には、かの大投手・沢村栄治(巨人)を打ち崩すのに、投手をプレートの手前から投げさせるという画期的な打撃練習を敢行し、ダイナマイト打線を築き、タイガースを二期連続で優勝させた。また昭和18年、日に日に戦火が強まる中で行われた職業野球では、西鉄軍を秋のシーズンに優勝させている。

 

 野球の鬼と呼ばれ、石本の手にかかれば必ずや優勝できる、とまで言われた。その伝説は中等野球時代からもそうで、母校・広島商業の監督を引き受け、春夏春の3連覇を含む4度の全国優勝に導いた。まさに日本球界における最初の名将であった。

 

 広島市生まれであり、数々の実績をひっさげ、のちに誕生するカープの初代監督に就任する石本は県民・市民にとって誇らしい存在であった。

 

 南海の監督は石本と同じく広島商業出身の鶴岡一人(一時期は山本姓)だった。広島商が3連続全国制覇(昭和4年夏、昭和5年夏、昭和6年春)を果たした最後の年、春の選抜大会の優勝メンバーで、ポジションはショート。この優勝の後にアメリカ遠征に行き、日系人チームと対戦しながら、本場の野球にいち早く触れた。後年、ミスタータイガースと呼ばれる長尺バットの使い手である藤村富美男とは、同じ呉市出身で生涯のライバルと言われた。

 

 鶴岡は南海ホークスの監督として、11度のリーグ優勝、2度の日本一と黄金期を築いた、プロ野球界における大監督である。

 

 3人目は浜崎真二で、昭和24年は阪急の監督を務めていた。浜崎も広島商業出身で、のちに神戸商業に転校した。広商時代には先に記した石本の後輩として"選手・石本"を知る数少ない人物である。キャプテンでエースを張っていた石本の投球練習はすさまじかったことを、著書に記している。浜崎は身長わずか150数センチとプロ野球選手としては驚くほど小柄だったが、阪急では投手を務め、48歳になるまでマウンドに上った。阪急から、高橋(トンボ)、国鉄で監督を務めて、小柄ながら球界では大きな存在感を示した人物である。

 

 4人目は若林忠志でタイガースの監督だった。若林自身はハワイ生まれだが、両親が広島出身だった。現役時代には16年間で通算237勝144敗、防御率1.99という驚くべき数字を残している。

 

 これら4人の広島ゆかりの人物は全員が野球殿堂入りを果たしている。

 

 広島ブームという時代背景を追い風にして、広島にプロ野球チームを誕生させるのは、偶然とはいえず、必然でもあっただろう。むしろ広島にプロ野球チームがないことの方が不自然で、復興もままならない広島の人の心に、「プロ野球は広島人が支えている」との、郷土への誇りが芽生え始めた。

 

 財界四銃士、電車内の誓い

 広島にプロ野球をという熱い思いがあった、その証拠となる文献を発見した。昭和24年の"広島ブーム"の前年のことだ。当時、広島はヤミ市などで奪い合いによる血なまぐさい事件が頻発していたころである。原爆で荒廃し、人々の心もどこか荒んでいた時代だ。広島駅から夜行列車に乗り込む4人の男がいた。

 

 中国新聞東京支社通信部長、河口豪。広島電鉄専務、伊藤信之。広島県総務部長、河野義信。広島銀行取締役、伊藤豊である。

 

 この列車内の会話について、『カープ30年』(富沢佐一・中国新聞社)にこう記されている。

 

<河口の記憶では、23年8月7日午後、のち「筑紫」となる東京行き急行でのことだった。ばったり出会った4人の間で、野球談議が尽きなかったのだ。
 広島にもプロ野球があったらなあ--。
 そうだなあ、健全な娯楽が必要だ--。
 広島にそんな資金力のある会社はないが……。
 だったら、広島県や、広島市が出資するんですよ。そうすれば、入場税が、広島県、広島市にも入るはずだ--。>

 

 こうした広島財界人らの間で、プロ野球への思いが芽生えてきていることを、野球評論家である大和球士も記している。

 

 上記4人のうちの1人である河口の思いを、彼はこう残した。この時代、広島でプロ野球の興行が行われようものなら、観客たち喜びようと大声援は凄まじいものがあった。

 

<「『これなら、広島にプロ野球を創設しても、やっていけるのではあるまいか』と思った。単に満員になったばかりでない、観客の熱狂ぶりが凄かったので、プロ野球が誕生すれば、必ず、広島市民にもり立てて貰えそうな気がしたのであった」>(大和球士「広島カープそのたどった道」)

 

 広島の県民・市民らの間では、広島の町にプロ野球チーム誕生を願う声が、共通の思いとして、ひそかに芽生えつつあったのだ。これらを内に秘めた列車での長旅の会話は、この上なく楽しいものであったろう。

 

 カープ誕生につながっていく序章には、財界人らの復興へ願いをのせた野球熱、また、それらを加速させた広島ゆかりの監督らの存在が大きかった。県民・市民の夢を乗せ、彼らの情熱を燃料とした「球団創設」という名の列車はこの後、誕生に向けてひた走るのである。
(以下、次章へつづく)

 

【引用・参考文献】 『カープ30年』冨沢佐一(中国新聞社刊)、「広島カープそのたどった道」大和球士(『野球界第47巻第9号―広島市民球場完成記念号』に収録・博友社刊)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作は「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)。

 

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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