法政大学サッカー部所属のGK中野小次郎は小学2年生の時に地元サッカーチームのUSFCに入団した。当初はフィールドプレーヤーだったが、実力はさほどだった、という。中野は3月の早生まれだ。そのことも関係していたのだろう。母・由紀子は「体は大きかったですが、神経が体の成長に追いついていない感じがした」と言う。

 

<2019年1月の原稿を再掲載しています>

 

 きっかけは昼休み

 

 それでも中野は少しずつ実力をつけて地区の選抜に入れるようになった。彼が5年生の頃、転機が訪れる。それは選抜の練習の昼休みのことだった。チームメイトとミニゲームで遊んでいた。「まだこの頃はFWや左サイドバックが本職だったんですけど、遊びでGKをやってみたんです」と中野は語り、続けた。

 

「この遊びの時にかなりの数のシュートを止めました(笑)。それをたまたま選抜のコーチが見ていて、“GKをやってみたら?”と言われました」

 

 コンバートを提案された当初は「あまり乗り気ではなかった」。FWとして試合に出場し、得点を取りたい気持ちが強かったが、中野はGKコンバートを受け入れた。そこには彼の冷静な判断があった。

 

「フィールドプレーヤーだとこの時は安定して試合に出られなかった。最終的にはとにかく試合に出たいという気持ちが上回った。GKなら安定して試合に出場できると思ったんです。良い機会だし、やってみようと思ってGKを始めました」

 

 コンバートからほどなくして、今度はGKとして地区選抜入りを果たす。すると徳島ヴォルティスの下部組織関係者の目に留まったのだ。「ヴォルティスなんて雲の上の存在みたいな感じ」と中野。コーチ伝いで「ヴォルティスから話が来ている」と聞き、6年生の夏にジュニアユースに入ることを決めた。

 

 ヴォルティス側から声がかかったとはいえ、セレクションは受けなければならなかった。その時、手応えはなかった。中野の回想――。

「いろんな地区から人が集まりました。GKは6人くらいだったと思います。最初はGK練習を行い、そこで判断された。次にゲーム形式のセレクションでした。あまり良いプレーができた記憶がないんです」

 

 自身は「手応えはなかった」というものの将来性も見込まれたのだろう。中野は無事、ヴォルティスジュニアユースに合格。「これからもサッカーができるんだ」とホッと胸をなでおろした。

 

 地元の中学校に進学し、晴れて新生活が始まった。今まで地元の少年団でプレーしていた中野にとって、プロの下部組織は刺激的な環境だった。周囲はうまい選手ばかり。この中で「自分はやっていけるのか」という不安と「それでも、やってやる」との気持ちが混在していた。

 

 中野にとってジュニアユース時代は“苦い思い出”だったのかもしれない。先に結論を述べると3年生の時は怪我などもあり3年間、サブGKという立場だった。中野はこう、振り返る。

 

「今もそうなんですが、当時から自分はサッカーがうまいと思ったことは1度もないです。でも、うまくなりたいという向上心は常に持っていました。悔しい気持ちも、もちろんあった。それでも“良い環境でサッカーができているし、専門的なコーチもいる。腐らずにやるしかない”と思いながら通っていました」

 

 母・由紀子は「家から練習場までは遠かったですが、ヴォルティスの下部組織に入ると小次郎が自分で決めました。こつこつ毎日、頑張って通っていました」と息子を見守っていた。

 

 “下部組織あるある”とは!?

 

 ヴォルティスの下部組織は定期的に選手との面談を設けている。中野は中学3年生になる前の面談で「徳島市立高校のサッカー部に行く」と伝えた。サブGKだったものの指導者たちは中野の将来性を十分買っていた。それでも彼はこの時は部活を選んだ。当時の力関係的には「ヴォルティスユースよりも徳島市立高校のサッカー部の方が強かった」と中野。これと、もう1つサッカー部に進みたい理由があった。「これは“下部組織あるある”なんですが、冬の高校サッカー選手権への憧れがあった(笑)」。幼少期から精神的に大人びていた中野だが、若者らしい一面が垣間見えた瞬間だった。

 

 だが、もともとサブGKだったことに怪我なども重なり試合出場は遠のいた。サッカー部へのアピールができなかった。再度、6月に面談が設けられた。依然としてヴォルティス側は中野の将来性に期待していた。中野は置かれた現状を冷静に判断してユース昇格を選んだ。

 

 中野は一般受験で徳島市立高校に入学した。同校はサッカー強豪校でありながら、進学校でもある。ジュニアユースの練習は火曜日、水曜日、木曜日の週3回。塾にはサッカーの練習がない月曜日と金曜日、そして水曜日の練習後に通った。受験について中野は「結構、余裕でした」とさらりと言った。母・由紀子は「小次郎は、割と要領が良かったです」と語り、こう続けた。

 

「ヴォルティスのジュニアユースに行くようになると、たぶん要領良く勉強しないと、サッカーと両立できないんでしょうね。成績が下がったら、次は上がるようにうまく自分で調整していました。本人から“徳島市立高校に行きたい”と聞いた時も、“あぁ、そうなん? じゃあ、行けるようにしいよ”くらいしか私は言ってないんです。合格枠に入れるように自分でうまく調整していました。成績も悪くなかったです」

 

 中野に「徳島市立高校に入学して、途中でユースを辞めて部活に入ろうと思った?」と質問をした。彼は間髪入れず、「それはないです。ユースに上がると決めた時から、部活は考えなかった」と返した。徳島市立高校を志望した理由はこうだった。

 

「文化祭と体育祭が楽しいと聞いていたんです。校舎は建て替えたばかりで綺麗でした。勉強もそこそこですし、軽いノリでこの学校がいいなぁ、と思いました」

 

 ユース昇格を果たし、希望する高校にも進学できた。この後、中野は「僕の人生のキーパーソン」という人物に出会い、サッカー人生が好転する。その人物とは……。

 

最終回につづく)

 

中野小次郎(なかの・こじろう)プロフィール>

1999年3月5日、徳島県徳島市生まれ。小学2年時にサッカーをはじめ、5年生からGKに転向した。USFC-徳島ヴォルティスジュニアユース-徳島ヴォルティスユース。2017年に法政大学に進学。同年U-18日本代表、2018年にはU-19日本代表に選出された。身長200センチ、体重90キロ。

 

(文・写真/大木雄貴)

 


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