100周年を迎える高校野球にあって、10勝以上を記録している監督の中で、最高勝率(8割5分3厘)を誇るのがPL学園を率いて春夏合わせて6回の優勝を達成した中村順司である。



実に58勝10敗。現在は愛知大学野球連盟に所属する名古屋商科大で指揮を執る。

初めてPLを率いて甲子園に出場したのが81年の春。エースがサウスポーの西川佳明。3番が吉村禎章だった。翌82年の春も榎田健一郎の好投で連覇を達成した。

今でも語り草になっているのが83年の夏だ。エースも4番も1年生。桑田真澄と清原和博が躍動した。
この夏の本命は82年夏、83年春を制した徳島の池田。剛腕・水野雄仁を擁し、3連覇濃厚と言われていた。高校生離れした強打は“山びこ打線”の異名をとった。

PLと池田は準決勝で激突した。下馬評は圧倒的に池田有利。試合前、中村は選手たちに、こう檄を飛ばした。
「オマエらな、もし負けても“水野君はすごかった”とは絶対に言うな」

どういう狙いがあったのか。
「試合後の談話を見ると、どのチームも負けた後で“水野君はすごかった”と言っている。これは戦う前から気持ちで負けていた証拠です。だから選手たちに対して敢えて強い言葉を使ったんです」

具体的な指示も出した。
「内側のボールを変に逆方向に持っていくんじゃなく引っ張れ」

2回、2死二塁で8番・桑田が叩いた打球はレフトスタンドへ。続く住田弘行もレフトのラッキーゾーンに打球を運んだ。
終わってみれば7対0。PLの圧勝だった。池田を破った余勢を駆って、PLは決勝で横浜商を下し、春夏合わせて4度目の全国制覇を達成したのである。

翌年の春は決勝で岩倉(東京)に敗れたものの、20連勝は今でも甲子園記録である。

85年夏は清原が輝いた。1大会で5本のアーチを架け、優勝に貢献した。

中村には忘れられない光景がある。
「この年の春、準決勝で伊野商(高知)に敗れたんです。ここには渡辺智男君という、後に西武に行く右の本格派がいて、清原は3三振を喫した。
負けた後ですよ。寮に帰って、僕は選手たちに“3年生の春は終わった。あとは夏だけや、皆、悔いのないように頑張ろう”と声をかけた。
そろそろアパートに帰ろうかと思っていたら、練習場から金属音がしている。そこには上半身汗びっしょりなってバットを振っている清原がいた。渡辺君を打てなかったのが余程、悔しかったんでしょうね」
後に「番長」として呼ばれる清原にもそういう時代があったのだ。

中村はPLでの18年の監督生活で、プロ野球史を飾る数々の名選手を育てている。立浪和義、片岡篤史、野村弘樹、橋本清、宮本慎也、坪井智哉、今岡誠、松井稼頭央、サブロー、福留孝介らが、その代表格だ。この8月で69歳を迎える中村は今も意気軒昂である。

<この原稿は『サンデー毎日』2015年8月16日号に掲載されたものです>