中国山地の山あいにある広島県比婆郡東城町(現・庄原市)で生まれた谷繁は地元の強豪・広島県立広島工高(通称・県工)を受験したが失敗、二次募集で島根県の江の川高(現・石見智翠館高)に進んだ。甲子園には2年と3年の夏、2度、出場している。
高校時代から谷繁を知っている野球指導者がいる。元プリンスホテル監督で巨人の編成部長も務めた石山健一だ。

<この原稿は2013年7月号の『小説宝石』(光文社)に掲載されたものです>

当時の谷繁について、石山は『スポルティーバ』のWeb版でこんな感想を述べている。
<谷繁との出会いは、彼が島根県・江の川高校(現・石見智翠館)3年生の時、プリンスホテルの練習に参加したことがあったのですが、それが初めてでした。当時の谷繁は強肩強打の捕手として、高校球界でその名を知らない者はいないぐらい有名な選手でした。
それぐらいの選手ですから、私も楽しみにしていたのですが、まず驚かされたのはキャッチングです。ボールの勢いに負けないというか、ミットの中でピタッとボールが収まる。それに際どい球もストライクにすることができる。センスの良さを感じました。本当に高校生かと思うぐらいのキャッチングでしたね。
それに構えです。どっしりしていて、本当に大きく見える。ピッチャーからすれば、投げやすいと思いますよ。捕球姿勢もいいですし、捕ってから投げるまでも早い。間違いなく十分プロでやっていけるレベルの選手だと思いました>(11年12月3日付)

ドラフト前、谷繁の獲得に最も熱心だったのは地元の広島だった。ところがカープは駒澤大の内野手・野村謙二郎(現監督)を1位で指名、谷繁を1位指名したのは大洋(現横浜DeNA)だった。
どんな経緯があったのか。
「今年のキャンプで(カープOBの)大下剛史さんに、こう言われました。“オマエ、よかったなァ。実はワシ(翌89年からヘッドコーチ)がオマエに代えて謙二郎を指名しようと進言したんだ。もしオマエが広島に入っとったら、これほどの成績は残しとらんぞ。ワシに感謝せい!”って(笑)」
そして、続けた。
「僕の野球人生を振り返った時、岐路での身の振り方が全てうまくいってるんです。もし広島県工に入っていたら、僕はプロ野球選手になれていなかったかもしれない。広島に入っていたら、大下さんがおっしゃったように、ここまでの成績は残せていなかったかもしれない。あるいはFA権を行使して中日に入っていなかったら……。それを考えると、幸せな野球人生なんでしょうね」

大洋では1年目から80試合も1軍の試合に出場した。高校を卒業したばかりのルーキーにしては上々のデビューである。
「まぁ、運が良かったんでしょうね。当時、大洋には若菜嘉晴さんというキャッチャーがいた。ところが若菜さん、僕が入った年の3月にトレードで日本ハムに行ったんです。もうひとり市川和正さんというキャッチャーがいたんですが、レギュラーを獲るほどではなかった。そのおかげで、ちょこちょこマスクを被らせてもらえたんです」
谷繁にとって転機は4年目だった。3年目に82試合に出場し、打率は初めて2割を超えた(2割3分7厘)が、4年目は74試合に減り、打率も1割9分1厘と1割台に逆戻りした。

「もう、まるっきり成績が出なくて。このままだとクビになるだろうな、と覚悟しました」
その年の秋、谷繁は運命的な出会いを果たす。現役時代、ベストナインに2度輝き、78年にはヤクルト初のリーグ優勝、日本一に貢献した大矢明彦がバッテリーコーチに就任したのだ。
大矢は谷繁をどう指導したのか。
「当時、セ・リーグ一のキャッチャーと呼ばれていたのがヤクルトの古田敦也でした。何とか、このクラスまで成長させてやりたいと。
谷繁の課題はリードでした。これを磨くには観察から始めなくてはならない。そう思って、こんなアドバイスをしました。たとえば球場までの車の運転。信号が赤だと、次の信号はどうなるか。また、赤になる確率が高ければ、ひとつ手前で曲がり、赤信号にひっかからないように球場まで行ってみる。どうってことないと思うかもしれませんが、先を読むトレーニングはどこだって、できるんです。ちょっとした工夫で予測能力がどんどん高まっていく。同時に試合の流れも読めるようになっていたんです」

大矢の指導の甲斐あって93年には114試合、94年には129試合に出場してレギュラーの座を確保したのである。
振り返って谷繁は語る。
「自分で考え、研究するようになったのは4年目の途中くらいですかね。
それまで僕は短気というか、ちょっとでも自分の思いどおりにならなかったら“うわーっ”となっていたんですけど、“キャッチャーの思うとおりになるわけないだろう”と大矢さんに言われました。
大矢さんには“とにかく我慢しなさい。それがキャッチャーだ”と教わりました。僕が変わるきっかけになったのは我慢することを覚えてからでしょうね」

1998年、横浜は38年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成した。谷繁は自己最高の134試合に出場し、打率2割5分4厘、14本塁打、55打点の成績を残し、自身初のベストナインに選ばれた。
MVPは1勝1敗45セーブ、防御率0.64という、クローザーとしてはおよそ考えられ得る最高の成績を残した大魔神こそ佐々木主浩だった。

実は谷繁、かつては佐々木の信頼を得られず、試合終盤になるとベンチにひっこめられることがままあった。
ある日、谷繁は意を決して佐々木に訊ねた。
「なんで僕じゃダメなんですか?」
大魔神は顔色ひとつ変えずに答えた。
「オマエよりも秋元(宏作)さんの方がオレは安心して投げられるんだよ」
「じゃあ全部止めれば使ってくれるんですか?」
「そうだ」
それからというもの、谷繁は泥だらけになりながらワンバウンドのボールと格闘し、時間をかけて佐々木の信頼を勝ち取ったのである。

優勝した98年には、1、2球ボールを受けただけで佐々木の調子がわかったという。それについて当時谷繁は、こう語っていた。
「リリーフ投手はマウンドで5球、投球練習をするのですが、佐々木さんは必ずストレート、カーブ、フォーク、ストレート、ストレートの順で投げます。それを見ているだけで、“今日のバランス”がわかりますね。
たとえばバランスが悪い時は、足を上げた時、身体の軸が後ろ方向に倒れるんです。つまり、体が反ったようなかたちになってしまう。こういう時はストレートも伸びず、フォークもきれいには落ちない。スッポ抜けたりもしますよ。
では、なぜ背中が反るかというと、疲れのため、軸足で粘ることができなくなるからだと思うんです。“タメ”がなくなるとでも言うんでしょうか。こういう時は佐々木さんといえども不安を感じますね。
背中が反っている時には、右手を使って“身体が傾いている”というジェスチャーをします。それを見たら佐々木さん、すぐに“わかった”というような顔をしますよ。(98年は)夏場、ややそういう時期がありましたが、シーズン終盤は、もう全く大丈夫でした。気合いも入っているし、全然、心配ありませんでした」

チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた監督の権藤博は谷繁に全幅の信頼を寄せていた。
「アイツは感性が素晴らしい。先乗りスコアラーがああしろ、こうしろと言ったところで所詮、現場の感性には勝てない」
谷繁には「続きの谷繁」というニックネームがある。多分に権藤の影響を受けていると見るのは私だけか。
権藤と言えば、ダイエーの投手コーチ時代、西武の清原和博に徹底した内角攻めを指示し、清原をして「顔も見たくない」と言わしめたことがある。
なぜ、徹底して内角を突くのか。
権藤は語ったものだ。
「ペナントレースは長い。1年間を通じてバッターが内角を意識してくれればシメたもの。そりゃ、何球も続けていれば狙われることだってありますよ。それでもいいんです。そのうち踏み込めなくなってきますから」

内角攻めはボクシングで言えばボディブローか。単発では効き目が薄い。続けることに意味があるのだ。
自らのリードについて、谷繁はどう考えているのか。
「よく、キャッチャー出身の解説者の方が“リードは経験がモノを言う”とおっしゃるんですが、僕はなかなかその域に達しなくて、本当の意味で、これまでの経験が自分の身になったと感じ始めたのは、ここ3、4年くらいですね。
最近は良くも悪くも、試合の潮目のようなものが見える。例えば2点差で勝っている終盤にピッチャーが代わる時、何か不安な自分がいたりする。指示を出すのはベンチですが、僕は“このままでもいいかな……”と思う時がある。そんな時は、打たれることが多い。ベンチに戻って“やっぱりな”という感じになるんです。
しかし、こればかりは自分では、どうすることもできない。“違うよなァ……”と思いつつも、受け入れるしかない。昔はシーズンのうち、何度か潮目が見える時期があった。1カ月につき1週間とか10日とか……。それが最近はシーズンを通して、そういう感覚を持てるようになってきた。だから今は本当にキャッチャーという仕事が面白いですね」

谷繁は“野村超え”の記録も持っている。入団以来、25年連続でホームランを放っているのだ。野村克也の場合、同じ25年連続でも入団から2年間は1本もホームランを放っていない。谷繁がいかに早くから頭角を現し、地道にコツコツやっているかという証左だろう。
普段は辛口で鳴る野村も、こと谷繁に話が及ぶと頬が緩む。
「彼は横浜と中日で6回も日本シリーズを経験している。キャッチャーの成長は、日本シリーズをどれだけ経験したかで決まるんです」
短期決戦は1球の配球ミスが命取りになる。タイトロープを渡るような戦いを通して、キャッチャーは成長していくというのが野村の持論である。
横浜、中日の主戦捕手としてマスクを被り、リーグ優勝5回、日本一2回。これは知っていたが、この16年間でBクラスが一度もないのだ。豊富な資金力を誇る巨人の主戦捕手・阿部慎之助でもAクラスは6年連続である。

パ・リーグに続いてセ・リーグでもプレーオフ(クライマックスシリーズ)が導入されたのが07年。レギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、そして日本シリーズをフルで戦った場合、最大で160試合となる。
キャッチャーはただでさえ激務の上、40歳を超えれば疲労の蓄積は尋常ではあるまい。
「11年の日本シリーズはきつかった。僕はあのシリーズ、全く打てなかった。実は6月の交流戦でヒザを痛めて2カ月休み、8月の終盤からフルに出て逆転優勝を果たしたんです。リーグ優勝を決めた途端に身体に力が入らなくなり、そのままクライマックスシリーズに突入した。もう全然、身体がいうことをきかなかったんですね。
チームのことを考えれば、今のシステムが続くなら別に連続して試合に出る意味ってあるのかな、という思いもあります。あと10年若かったら、そんなこと言わないと思いますけど、この歳だと休みも必要ですよ。特にウチのチームはベテランが多いので、二遊間も、一、三塁もサブ的なレギュラーがいて、順番に休ませながら試合に出した方が結果を残せるのではないか。巨人などは、そういうかたちでやってますよね」

谷繁には大矢がいたように、古田には野村がいたように、あるいは城島健司には若菜がいたように、名を残すキャッチャーには必ず“育ての親”がいる。後輩たちには、何を伝えたいのか。
「僕から彼らに、ああしろ、こうしろと言ったことはありません。聞きたいことは積極的に聞きにくるべきです。僕自身、疑問に思ったことをどんどん先輩に聞いてうまくなっていきました。ただ、聞きにくそうにしていれば、気になったところだけ僕から言うことはありますけどね。
ひとつ言えるのは、最近の若い選手の中には負けても悔しがらない者が増えたことですね。勝っても負けても淡々としている。それを見ていて、つい、こっちがイライラする(笑)。やっぱりこの世界、“やられたらやり返してやる!”という気持ちがないと生き残れませんよ。一応、僕は昭和の生まれなので、その思いだけは、これからも大事にしていこうと思っています」

(おわり)