ブラジル中部、内陸の都市クイアバは、灼熱の町だ。
 気温は30度を超えるが、湿気は第1戦のレシフェ、第2戦のナタールに比べて低く、体にまとわりつくような暑さではない。とはいえ、陽射しがあまりに強く、どちらかと言うと中東のような暑さのイメージに近いだろうか。


 日本代表取材団が拠点を置くサンパウロ近郊イトゥが冬の気配に近づいているだけに、寒暖差は大きい。筆者はTシャツの上にパーカーとジャンパーを着込んで飛行機に乗ったが、到着すればTシャツ1枚で十分。クイアバは蚊が大量に発生しているとも聞いていたので、虫よけスプレーを体に塗ってから町へと出た。

 ここ2戦との明らかな違いは、日本人サポーターの数だった。ナタールでも町を歩いていたら、多くの日本ファンとすれちがったりしたが、クイアバではグッと減った感じ。というよりも、コロンビア人サポーターの数が圧倒的に多いと言ったほうが正確だろうか。本国から比較的近いということもあって、コロンビア代表のレプリカユニホームを着たファンが大量に押し寄せていた。

 僕たちが宿泊するホテルも、コロンビアのサポーターばかり。試合当日、チェックアウトする際は、小さなロビーが黄色いユニホームで染まっていた。いろんなグループが存在していたようだが、すぐに意気投合して雄叫びが上がる。国旗をあしらった帽子をかぶり、国旗をまとい、顔にペイントをしていた。

 ブラジル人同様、コロンビア人も実に陽気だ。ミュージシャンのシャキーラのようにコロンビア人は美人も多いとか。確かに、なかなか美人が多い! 男女の陽気な会話がサラウンドになって聞こえてくる。

 筆者がこの光景を眺めていると、あるグループに声をかけられた。「写真、一緒に撮ろうぜ」と小太りのオジさんにコロンビアの帽子を強引にかぶらされてしまった。こういった雰囲気もW杯ならではのことである。彼は「日本はいいチームだ。でもコロンビアはもっといいチーム」と手を差し出してきたが、その目は血走っているような感じだった。

 サポーターの多さにはコロンビア国内の期待の大きさが表れている。
 4大会ぶり、つまり16年ぶりの出場ながら、チームはシード国としてこの大会に臨んでいる。エースのラダメル・ファルカオはケガが回復せず、メンバーから外れてしまったが、10番の若き指令塔ハメス・ロドリゲスを中心にした爆発的な攻撃力で、初戦はギリシャに3−0で快勝。第2戦もコートジボワールを退けて、ひと足先に決勝トーナメント進出を決めている。

 この日本戦はハメスやボランチのカルロス・サンチェスらを控えに回して先発メンバーを入れ替えてきた。
 スタジアムのお客さんは8〜9割方がコロンビアのファン、サポーター。ボールを持てば大合唱が続き、手拍子で後押しする。選手たちも自然と乗っていくように、ハメスが投入された後半からは一気にギアが入った感じだった。クイアバの主役は日本ではなく、久しぶりのW杯で意気上がるコロンビアであった。

 コロンビアは交代カード最後の1枚を、43歳になったばかりのベテランGKファリド・モンドラゴンに使った。日本としては屈辱的な交代ではあるが、前回のW杯を唯一知るレジェンドの出場に、スタジアムは沸騰した。チームばかりでなく、スタジアムも一体化させる智将ホセ・ペケルマンの采配は、見事の一言に尽きた。

 ザックジャパンの戦いは1分け2敗、グループリーグ最下位で終わった。
 ピッチに沈む選手たちの失意の光景とは対照的に、コロンビアの選手たちはスタンドと一緒に勝利を喜んでお祭り騒ぎ。スタジアムが賑わいを見せるなか、日本の選手たちの心にはどんな思いが去来していたのだろうか。

 その夜、クイアバの空港に移動してサンパウロ便を待った。空港でもコロンビアサポーターが音楽をかけ、踊っている人もいた。どことなく沈んでいる日本人とは実に対照的で、彼らの勝利の余韻は、まだまだ続いていた。

 ザックジャパンのW杯は終わった。
 クイアバの空港に流れるコロンビアの勝利を祝う軽快なダンスミュージック。この光景を、僕は一生、忘れることはないだろう。

二宮寿朗(にのみや・としお)
 1972年愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。格闘技、ボクシング、ラグビー、サッカーなどを担当し、サッカーでは日本代表の試合を数多く取材。06年に退社し「スポーツグラフィック・ナンバー」編集部を経て独立。著書には『岡田武史というリーダー 理想を説き、現実を戦う超マネジメント』(ベスト新書)、『闘争人〜松田直樹物語』、『松田直樹を忘れない。〜闘争人II 永遠の章〜』(ともに三栄書房)、『サッカー日本代表 勝つ準備』(実業之日本社、北条聡氏との共著)がある。『Sportsプレミア』で「FOOTBALL STANDARD」、携帯サイト『二宮清純.com』にて「日本代表特捜レポート」を好評連載中。