終戦から4年が経った昭和24年秋、広島にプロ野球チームが誕生した。しかし原爆から復興最中の広島において、球団を抱える余裕のある会社などはなかった。カープ球団は親会社のないまま創設に向かい、広島県民や市民の期待を大きく背負ったチームの監督に就任したのが石本秀一であった。


「給料のことは言いたくない。自分の野球人生の最後の花を、郷土広島カープのために咲かせたい」

 

 石本は創立準備委員長となる谷川昇に語り、この覚悟とも言える発言に心を打たれた谷川が石本監督実現に向けて動き出したのである。今回のカープの考古学は「金のことは言わん」との覚悟を見せた石本を支えた自身の経済事情について、新事実を交えて書いてみたい。

 

 2リーグ制で契約金暴騰

 昭和24年オフのプロ野球界は揺れに、揺れた。アメリカ大リーグにならって2リーグ制導入が決定し、8チーム1リーグだったプロ野球が、セ・リーグは8球団。パ・リーグは7球団とおおよそ倍へと膨れ上がったのだ。チーム数が増えれば当然、監督や選手も必要になり目ぼしい人物は球団間で取り合いになる。選手や監督の需要が増えたことで彼らへの契約金や年俸も高騰するばかりとあっては、資金力に劣る新球団カープは当初から苦戦を強いられていた。

 

<金のないカープに勝ち目はなかった。選手不足から、当然のことながら契約金が大暴騰するからだ>(『カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡』松永郁子・宝島社)

 

 プロ野球選手や監督の契約金が釣り上がり、多くが富豪となっていく中にあっても、石本は野球人生の最後を広島のために尽くすことを誓い、給料のことを一切言わなかった。これは今回、改めて数々の証言や文献にあたってみても相違ない事実だ。

 

 ただし、ここで素朴な疑問が沸いてくる。人は霞を食べては生きてはいけない。本当に給料のことは言わなかったのか、またそれで生活はできたのか、という疑問である。

 

 石本が監督に就任し、選手集めに奔走してチームが動き始める中、ともにカープ草創期を支えた白石勝巳(敏男)は、自著『背番8は逆シングル』(ベースボールマガジン社)で給料に関して下記のように述べていた。

 

<石本さんやぼく(編注・白石)は後まわしになって、満足にはもらえないという状態であった>

 

 やはり石本や白石といったチームの首脳や主力には、お金が回っていなかったようだ。しかしながら、石本というのはあらゆることに才能を発揮してきた人物である。金がないならないで、何か方法があるはずだとばかり、石本は人生設計をも考えて、行っていたことがあった。それは、株である。

 

 白石はシーズン中、遠征先の旅館で、石本と同部屋になることが多かった。夜寝る前になると石本は決まってパチパチと算盤を弾いていた。最初は「何をやっているのだろうか」と不思議に思っていたが、旅館の同部屋で過ごす時間が長くなってくると次第に「株をやっているのか」と分かってきたのである。

 

<一緒に枕を並べて寝るようになってからの全くの新しい発見であった>(同前)

 

 青年コーチ・上田の証言

 石本の株は、投機目的で買い、瞬間的に儲けるために売るものではなかったようだ。要は売ったり、買ったりしているのではない。あくまでも自分の財産として、蓄えるために買っていた。

 

<株をやるといっても、売ったり、買ったりしているのではない。それも多少あったかもしれないが、買う一方で、財産として残しているのである>(同前)

 

 現在のプロ野球選手の遠征先での宿泊は、豪勢なホテルであり、その多くが個室であるため、寝泊まりの中、他選手から受ける影響は少なかろう。しかし、当時の貧しいカープとあらば、当然ながら、旅館の相部屋となり、相手から得るものは大きかった。

 

 後年のことになるが、石本が昭和41年にヘッドコーチとして、再びカープのユニホームに袖を通した年のキャンプことだ。

 

 この時の同部屋は、わずか3年の現役生活の後、弱冠24歳(発表当時)で、カープのコーチに就任。青年コーチと話題になった上田利治(故人)であった。のちに史上最強軍団とも称された阪急ブレーブスの監督となる人物である。昭和53年の日本シリーズで、ヤクルト大杉勝男の放ったレフトポール際を通った微妙な打球(判定はホームラン)に対し、ファウルだと主張。日本シリーズ史上最長となった1時間19分の猛抗議を行ったのは、今もプロ野球ファンの記憶に残っている。

 

 当時、若き青年コーチであった上田も就任から5年目を迎え、石本の一挙手一投足を学んだ。日南でのキャンプ中、同部屋になった上田の記憶をたどる。石本はキャンプでは早起きであり、その生活ぶりには感心させられることもあったが、ただ早起きをするだけではなかった。計算機と書類を持って、熱心に何かを書き出していたのだ。以下、生前に取材した上田の証言を、筆者のメモから忠実に再現する。

 

 "親心"の株主優待

--上田は石本をじっと見つめていた。その様子に気が付くと、「上田君。注意してね、人生を歩くとおもしろいぞ」。何をやっているのだろうかと上田は訝し気に石本の持っている書類を覗く。まだシーズン前とあって、打率の計算や、投手成績を書き出している訳ではなかった。

 

「石本さん、何しているんですか?」
「オレはね、株をね、している。決して儲けよう、ではない」と石本。決して売り買いする投機的な株ではなかった。お金があるときに買い続けるものであったという。上田はこう振り返った。

 

「この株に対して、石本さんは絶対に売らんというんですよ。株は売らないで、そのときの最高級の会社の株を買えるだけ買う。当時(昭和41年)だったら、松下電工とか、トヨタとか、そういう、自ら増える株は買っても、絶対売らない。徹底しておったね。それだけ買って。増えてくるからね。途中で投げて、売り払うことは絶対しない。そう話してくれました。今(取材当時2014年9月19日)になってね。大事なことだな~と思いました」

 

 これら株にまつわる証言を、石本の長男、剛也(故人)にも聞いたことがある(取材日2009年3月17日)。

 

 長男の剛也が、関西学院大学に通うころのことだった。阪神や阪急という関西での主要な交通機関に乗ることが多かった中、これら電鉄株を多く買っていたという。当時、モータリゼーション到来前の時代とあって、これらの株は堅実で成長物件でもあっただろう。

 

「堅い銘柄ばかりを選んで買っていましたね」と剛也は語った。さらに、関西学院大学に進学し、大学に通うことが決定したと思ったら、いきなりこれら電鉄株の名義を息子剛也のものとしたという。なぜか? 関西においての交通の利便性を考え、長男・剛也が株主優待制度が受けられるように名義の変更をしたのだという。

 

 再び剛也の証言。「ようは大学時代に電車賃を払わなくていいように、株主優待が受けられるようにと、名義を変えてくれていました」。

 

 カープから給料がもらえないが、しかし、息子は大学に通わせる。ならば、せめて阪神と阪急の電鉄株だけでも名義を変更して、その優待制度で電車に乗れるようにしてやろう。せめてもの石本の親心であった。

 

 卒業と同時に再名変

 剛也の証言はまだまだ続き、父・秀一の株に関する取り組みや、その保有量は片手間にやっている中途半端なものではなかったという。

 

「それがねー。株をようけー、持ってたよ。カープに入る前は。決して売り買いはしない。安全株ばかりでね。決して投機はしていない。それはうまかったね」

 

 現在の言葉でいうならば財テクとも言えるだろう。堅実な銘柄の株を買い続け、さらに株主優待制度を息子に受けさせ、大学へ通う電車賃に充てるなど、知恵を凝縮させた動きには恐れ入る。

 

 さらに堅実な石本らしい逸話がある。息子名義に書き換えた阪神や阪急の電鉄株は、剛也が大学を卒業したと同時に、「もういらんやろう」と言って、またまた自分名義に戻したらしい。

 

 石本の経済観念にはほとんど無駄がない。のちに誕生したカープ球団が見舞われる、幾多の存続の危機を救った石本の原点を見る思いがする。

 

 後援会組織の結成を呼び掛け、小さなお金をたくさんの人から集めるという際にも、領収書の代わりに株券を発行したのは、株の概念を採り入れたものだろう。さらに酒樽を球場前に設置することで募金を集める。「無駄じゃないか」と一般的に思うようなことでも、経済観念の鋭い石本は見逃さない。小さなお金を集めていくことがやがて大きな蓄えとなることを知っていたのだろう。

 

 復興期の広島において、親会社になれる会社もないため、資金調達における苦労が絶えなかったカープであるが、初代監督が当時から"財テク"を知る石本であったのが幸いだった。石本が監督だったからこそ、あらゆる危機を乗り越えることができたのだ。

 

 カープ初代監督に就任するにあたり、石本が「金のことは言わない」と語った言葉に偽りはなかった。お堅い銘柄の株式の保有量が多く、給料のみに固執しないで生活ができたのは真実であった。選手を育てる名伯楽であった石本は、株による資産形成の名手でもあった。財テクによって野球に打ち込める環境を自ら作り出していたのである。(つづく)

 

【参考文献】 「カープ 苦難を乗りこえた男たちの軌跡」(松永郁子・宝島社)、「背番8は逆シングル」(白石勝巳・ベースボールマガジン社)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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