徳島で名を上げた藤本愛妃の元に桜花学園高校からの誘いが届いた。名将・井上眞一監督が率いる桜花学園は全国大会で数々の優勝を手にしている名門中の名門だ。藤本の入学前にその数は50をも超えていた。藤本は中学3年時に全国中学体育大会(全中)への出場を果たしたことで、名伯楽の目に留まったのだ。しかし、彼女は「最初は行くつもりありませんでした」と、進学先は県内の強豪校でと考えていた。

 

「徳島の高校からは中学1年の時からずっと呼んでいただいていたので、そこに行くつもりでした。まさか桜花から声が掛かるとは思ってもいませんでした。それに全国トップクラスの学校で活躍できる自信もなかったので迷っていたんです」

 

 ところが、一本の電話が流れを変える。

 藤本に連絡を寄越したのは大神雄子だった。大神は両親が徳島県出身ということもあり、藤本と接点があった。桜花学園高OGで、7度の全国制覇を経験。2001年に実業団の名門ジャパンエナジーJOMOサンフラワーズ(現JX-ENEOS)入りしていた。スピードとテクニックを併せ持つガードで、日本代表では04年アテネオリンピックに出場、08年にはアメリカの女子プロリーグWNBAでプレーした。

 

 藤本は大神に進路を相談した。すると返ってきた言葉はこうだった。

「全国優勝するチームでプレーするなんてなかなかできないよ」

 それは自らに自信を持てず二の足を踏んでいた藤本の背中を押したのだった。

 

 暗雲が立ち込めたケガ

 

 桜花学園進学を決意した藤本は、徳島県の親元を離れ、愛知県での寮生活をスタートさせた。

「絶対的なレギュラーの先輩もいて、ベンチに入れるか入れないかも必死でした」。同じセンターには馬瓜エブリン(現アイシン・エィ・ダブリュ・ウィングス)というエースがいたが、「レベルの高さを」1年生時からAチーム入りするなど順調な船出だった。

 

 小中学校では未経験だった全国制覇は、1年時の全国高校総合体育大会(インターハイ)で初めて味わった。

「その時はただただ偉大な先輩たちに圧倒されていました。そして“自分の力で日本一になりたい”とも思いました」

 

 1年の冬、全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(ウインターカップ)でベンチ入り。徐々に試合の出場機会は増えていった。春の県大会ではスターターとして起用されたU-16日本代表合宿にも参加した。

 

 ところが、藤本はその合宿でケガをしてしまう。レイアップシュートを打とうとして、空中でディフェンスに身体を当てられた際、着地に失敗して左手首を骨折。約2カ月の離脱を余儀なくされ、順調満帆に来ていた競技人生に暗雲が立ち込める。

 

 チームを離れる間に後輩の馬瓜ステファニー(現トヨタ自動車アンテロープス)にポジションを奪われた。後輩のセンターにはもう1人、梅沢カディシャ樹奈(現JX-ENEOS)という180cmを超える長身選手もおり、明け渡したセンターのポジションを奪い返すのは容易ではなかった。

 

 ケガをした左手以上に心が折れかけた。そんな藤本を救ったのが両親の存在だった。特にスポーツトレーナーである父・俊彦は彼女に「ケガした患部以外のところであれば、ナンボでもできることがある。人が休んでいる時にもトレーニングしろ」とアドバイスをくれたという。

 

 形成されたプレーの鋳型

 

 元プロ野球選手の父には「人の二倍は努力していないとダメだ」とバスケットを始めたばかりの頃から口酸っぱく言われてきた。しかし、それまで順調に成長してきた藤本にとっては胸に響くものではなかった。

「無視していました。それはやらなくてもうまくいってきていたから……。でも桜花だと周りも努力している。そこでやっとお父さんが言っていたことが分かりました」

 

 父・俊彦の回想――。

「僕はオリックスでイチローが努力する姿を見てきました。天才が死ぬほど努力してああいうふうになれる。だからまずすべきことは、人が休んでいる時、練習をしていない時に差をつけるんです。食事の理論、トレーニングの仕方、ストレッチ、ウォーミングアップ、クールダウンについてはうるさく言っていきましたね」

 父はプロで活躍することはかなわなかったが、誰よりも努力をしてきた自負がある。だから娘にはできる、できないに関わらず、教えられることはすべて教えたという。

 

 リハビリをこなし、復帰した藤本だったが、今度は足首を捻挫した。「まるで厄年。その時は腐っていました」と振り返るほど、2年時にはケガに悩まされるばかりだった。

「あの時、左手首を骨折していなかったら、とは今でも思うんです。でもその悔しい思いが今に生きているんです」

 

 メンタル面以外でも、桜花学園での経験は現在の藤本に大きな影響を与えている。彼女のプレースタイルの鋳型は高校時代に形成されたところが多分にある。フェイドアウェイシュートは上背がずば抜けて高いわけではない自分が生き抜くために覚えた技術で、シュートの正確性とエリアの広さに繋がっている。

 

 走れるインサイドプレーヤーというのも桜花学園のバスケットスタイルに合わせたからだ。中学まではセンターとしてインサイドでどっしり構えるタイプだった。「インサイドでシール(ディフェンスの前に身体を入れ、密着して相手の動きを封じること)して点を取っていました」。速攻時に先頭切って走るような現在のプレーは、それまでの彼女を知る者からすれば劇的な変貌ぶりと言っていいだろう。

 

 3年時には常にベンチ入りし、試合への出場機会も増えた。2冠に貢献。藤本には実業団からのオファーが舞い込み、関東の強豪大学にも誘いを受けた。Wリーグか大学か――。その選択肢の中で藤本は関東のある強豪大学へ行くつもりでいた。ところが彼女が春に入学したのは06年に創部したばかりの東京医療保健大学だった。藤本を翻意させたのは1人の若手指導者の情熱だった。

 

(第4回につづく)

>>第1回はこちら

>>第2回はこちら

 

藤本愛妃(ふじもと・あき)プロフィール>

1998年2月11日、徳島県徳島市生まれ。小学3年でバスケットボールを始め、6年時には全国大会で3位に入る。小松島中学3年時には全国中学校体育大会に出場した。名門・桜花学園高校進学後、数々の全国大会優勝を経験。東京医療保健大学進学後は1年時から主力としてプレーする。2年時に関東大学リーグ戦と全日本大学選手権大会(インカレ)の2冠達成に貢献した。同年夏にはユニバーシアード競技大会の日本代表に選ばれ、50年ぶりの銀メダルを獲得した。3年時はケガに苦しみながらもインカレ2連覇に導く活躍を見せた。身長182cm。

 

(文・写真/杉浦泰介、競技写真提供/東京医療保健大学)

 


◎バックナンバーはこちらから