カープ初代監督である石本秀一本人のエピソードに触れるのは、今回で三回目となる。前回は石本個人の経済状態について書いた。いわゆる懐具合だ。プロ野球で監督やコーチをしながら、企業の株式を定期的に買い続けることで、財を蓄えて生計を立てていたのだ。

 

 広商仕込みの嗅覚

 カープの設立当初は貧乏球団と揶揄され、給料がもらえるか、もらえないか分からない状況下でも、給与に頼らなくても生計が立てられるよう、資産形成を行っていた。

 

 また、カープが球団創設2年目に存続の危機に瀕した際には、資産形成術ともいえる後援会組織をつくり上げて、その会員1人ひとりから年間わずかなお金を集めるシステムを築いている。結果、大きな資金を集めることに成功し、球団経営を軌道に乗せるという離れ業をやってのけた。この会員たちへ領収書代わりに株券を発行したのも石本ならではのアイディアだろう。

 

 株式に着目した財テクにより生計を立てたり、株券発行で球団経営を成り立たせるという石本の手法だが、いったいこれを誰に学んだのか、という素朴な疑問も沸いてくる。これについて、カープ設立時の助監督である白石勝巳(敏男)が自著の中でこのように証言している。

 

<広島商業という、商業学校で教育を受けたからではないか、と思ったものである>(『背番8は逆シングル』ベースボールマガジン社)

 

 旧学校制度の下、石本は広島商業での教育課程を5年間受けている。数字を読み、お金の動きを把握し、さらに組織全体の経済を見る力はこの5年間で培われた。これが白石の見解である。

 

 石本の一切の無駄がない管理能力や、抜け目なくお金の動きを把握することへの高い意識は、のちのち広商野球のプレースタイルにも影響を与えていたのではなかろうかとさえ感じられる。広商野球といえばランナーが1人出れば、送りバントや盗塁などの小技を絡めて進塁させ、1点ずつ得点を積み重ねていく戦術である。実に無駄なく、そつがない。こうした広商イズムは石本の発想からきているのであろう。

 

 さて、石本自身が、この広島商業へ進学した理由については、あまり公に語られてはいない。野球にのめり込む石本の多感な青年期にあっては、すでに野球部のあった広島商業への進学は当然の流れのように見えるだろう。ところが、この進路決定には父親とひと悶着あった。文献を交えながら、石本家の"受験戦争"を振り返ってみよう。

 

 石本は、広島市中心街から東部側の段原地区で生まれ育った。石本の父・和三郎は、建設業を営んでいた。石妻組という土建会社を営み、主に橋梁工事を請け負った。明治時代の後半になり、広島市には日本軍の大本営が置かれた。当時、日本は民主国家への歩みを進め、大正デモクラシーが叫ばれ、生活の様式も欧米化が進み、近代国家としての様相を呈していった。まだ田園風景の残る三角州の広島市近郊においても、橋梁工事を始めとした土建工事が増え、石妻組は羽振りの良い会社として成長していった。家業が繁盛する中で育ち、石本は幼少期から青年期までお金に困るなどということは一切なく裕福に過ごした。

 

 家業を継がせたい父

 当時、家の長男は親の事業を継ぐのが当たり前で、世襲が美徳とされた時代である。父・和三郎も長男・秀一が家業には興味も示さず、野球に打ち込むことには苦い顔だった。中学受験についても父親は石本を後継ぎすることを大前提として考えていた。

 

 以下は「カープ十年史『球』」(読売新聞)より引用する。

 

--「お前、野球はしていないだろうな。受験勉強をせーよ」と父、和三郎。
「受験勉強いうてどこへ行け言うんね」と秀一。
「バカか、きまっとるじゃあないか。ワシの跡を継ぐんじゃけえ県工だ。あそこは入学がむずかしいけえがんばれよ」と和三郎。--

 

 この県工とは、現在の県立広島工業高校のことである。カープで四番を務めた新井貴浩をはじめ、数多くのプロ野球選手を輩出している野球の名門だ。しかし、当時の県工にはまだ野球部がなかった。創部は昭和に入ってからのことだ。県工は広島職工学校として誕生し、機械や建築、工芸技術者を育てる学校であった。父は家業を継ぐ石本に手に職をつけさせたかったのだ。

 

 この「手に職を」という言葉はあの時代、親が口を酸っぱくして子供に言っていたと想像できる。「これからは手に職がある者が勝つのだ」と。ところが「親の心子知らず」ではないが、石本自身は「手は野球のボールを握るもの」とばかり、野球部のない県工ははなから選択肢に入っていなかったのである。

 

 再び、「カープ十年史『球』」をあたる。

 

――「あそこは、野球がないけー」と秀一。
「なに、もういっぺんいうて見い。なんばーいうても野球は一生やらしゃあせんけえー、覚悟しとけ」と和三郎。--

 

 父・和三郎は朝から晩まで野球にうつつを抜かしている長男に、決して寛容ではなかった。思い悩む石本であったが、周囲の目には父の言うとおり県工を受験するかに見えた。

 

 歴史に「もしも」や「たられば」はないが、もしも石本が県工に進み、野球を諦めていたとしたら……。のちに広商で自らが投手としてチームを牽引し、第二回全国中等学校野球大会へと出場を果たすことも、石本自身が監督として広商を4度の全国優勝に導くことも、そして郷土に生まれたプロ野球チームの育ての親として、郷土復興を後押ししたという歴史も変わっていただろう。

 

 迎えた運命の受験当日。ここで実に石本らしいエピソードが生まれた。

 

 父・和三郎は何事も一筋縄ではいかない彼の性格をよく知っていた。ならばと、県工の受験会場まで会社の若い衆を付き添わせるという策に打って出た。こうなると石本の広商受験の道は閉ざされたも同然である。だが、そこはあらゆることに知恵を働かせ、アイデアを生んできた石本である。県工の校門を入り、若い衆の姿が見えなくなった。と、次の瞬間、石本は一目散に走り出した。

 

 広商へダッシュ!

 さあ、裏門へ急げとばかりに、石本は県工の裏門へ向けて猛然とダッシュした。裏門を飛び出て向かった先はもちろん広島商業の受験会場である。汗をかき、息を切らしながら無事に鞍替え受験を果たした秀一であるが、その結果は?

 

 再び「カープ十年史『球』」に戻ろう。

 

--合格発表のあった日。
「ただいま」と秀一。
「どうじゃった。通ったか」と和三郎。
「うん。それが県工は落ちたが、広商に受かった」と秀一。
「みてみい。勉強が足りんかったけえ県工をすべったんよ。仕方がない、まあ広商へいけ」と和三郎。--

 

 こうして、石本は広商の生徒となり、もちろん野球部へ入部した。

 

 なお石本家の家業である石妻組は、世界恐慌へ向かう暗雲立ち込める世情に飲まれて失速し、やがて廃業することになる。石妻組は「石本の風呂屋」「石本の化粧品屋」「石本の駄菓子屋」と呼ばれる事業に形を変えていった。余談ではあるが、これら「石本の○○屋」は同族経営であったそうで、石本家は根っからの商売人というか、事業家揃いであったのだろう。

 

 話を戻そう。無事に石本は広島商業に入学し、野球部でもメキメキと頭角を現していった。2年生からエースとして活躍し、第1回全国大会出場こそ広島中(現・国泰寺高校)に譲ったものの、第2回大会は石本が投手としてチームを牽引し出場を果たした。また卒業年の大正6年の全国大会にも出場している。地元広島では「広商に石本あり」、石本の名は広く知られるようになったのである。

 

 当時、広島の町を歩けば、床屋や八百屋、駄菓子屋など、あちこちから石本を呼び止める声がかかった。まだプロ野球のない時代、中等野球のエースは英雄視され、さまざまな歓待を受ける日々であったという。

 

 卒業後、石本は大学に進学するのであるが、この大学進学においても紆余曲折があった。郷土が生んだ青年球児であった石本のことを「世話したい」という実業家も現れて、石本を慶応大学へと導いていった。

 

「カープ十年史『球』」にはこう記されている。
<中等野球の審判をしていた呉市の財閥、沢原銀行の子息が目をつけ盛んに慶応進学を勧めた>

 

 大学野球が活況を呈し、花の六大学として盛り上がりを見せていた当時、慶大進学は球児たちの憧れであった。石本は野球人としての進路選択を迫られるが、一体、石本に慶応大学進学を勧めた沢原銀行とはどのような会社で、この沢原家とはどのような家柄であったのだろうか。

 

 沢原=澤原は広島県呉市の大地主であり、沢原銀行の子息とは地元の名士として政治にも携わった澤原俊雄のことである。石本の大学生活に深くかかわり、多大なる援助をしたとされる澤原家の家柄や事業については次回に紹介しよう。乞うご期待。

(つづく)

 

【参考文献】 『背番8は逆シングル』白石勝巳(ベースボールマガジン社)、「カープ十年史『球』」(読売新聞)、「情熱と信念の野球人~石本秀一物語」(中国新聞)、『広島県高校野球五十年史』(広島県高等学校野球連盟)

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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