カープ初代監督に就任する石本秀一の人生は、波乱万丈の連続であった。親からの反対を振り切って広島商業に進学したのは前回で述べた。その後の大学進学においても騒動が起きたのだが、これは石本が「野球の神童」と呼ばれるほどの名選手であったが故のことである。

 

 劇的に変わる明治の呉市

 石本の在籍した広島商業野球部は、かねてより早稲田大学からの教えを受けていたことから、石本は早大に進学するのが当然と見られていた。しかし、石本を慶應義塾大に熱心に誘う人物がいた。このスカウトをきっかけに進学先が決まるのだが、文献を辿りながら石本の慶大進学に尽力した人物について触れてみよう。

 

「広商に石本」ありの名声がとどろいていた中等野球時代のこと、この石本に目をつけたのが呉市の大財閥であり名士・澤原家の子息であった。

 

<中等野球の審判をしていた呉市の財閥、澤原銀行の子息が目をつけて、盛んに慶応進学をすすめた>(「カープ十年史『球』」読売新聞)

 

(写真:亮吉の父・澤原俊雄の始球式の様子<提供:澤原俊雄傳、澤原家>)

 この澤原銀行の子息とは、澤原亮吉(1888~1920)とされている。呉市の財閥、澤原といえば、呉市では知らぬ者はいない名家である。この亮吉の父、澤原俊雄は貴族院議員であり、のちに呉市長も務めた人物で、澤原家の当主六代目である。世間の評判としては、文献にはこうある。

 

<「呉市の澤原か、澤原の呉市か、でした」>(田口稔著『澤原俊雄傳』)
 明治、大正、昭和初期にかけて、よくいわれた語り文句だ。ではなぜ、澤原の呉であったのか--。

 

 明治23年4月21日、呉市に鎮守府、いわゆる海軍の拠点が置かれた。開庁式には明治天皇の行幸を得たことは驚くべき史実だ。日本がアジアを含めた対外戦略をすすめるための格好の良港とされたのだ。呉はその地形上、入り組んだ地形に瀬戸の島々が並び、外洋から艦船が侵入しがたい上、波風も防いで、穏やかな港であった。碇泊する軍艦の安全が確保できた。日清・日露戦争でも呉港は重宝され、後の太平洋戦争における戦艦大和の物語は、現在にまで語り継がれている。

 

 日本がアメリカとの戦いに挑む真珠湾攻撃においては、呉に停泊する軍艦長門から、連合艦隊司令長官・山本五十六が指揮をとったのはあまりにも有名である。

 

 この軍港の建設にあたっては、呉港の奥まった海面は江戸時代から埋め立てられ、すでに完成していた。これを見た海軍は、海軍施設へふさわしいとばかり、買い上げようと動きだす。この時の町民代表が、澤原家当主五代目である為綱であり、こう言ってのけたという。

 

「この地はすでに市民が分割して所有しているため、海軍の使用はむずかしいと思われる。どうしても必要であれば海軍の方で埋め立てされれば良いではないか」と伝えた。

 

 ただし、突っぱねただけではないのが澤原家の生き方であろう。

「そのこと(二次的な埋め立て)についての協力は惜しまない」と申し伝えて、その場をまとめた。その後、海軍は、澤原の言う通り、市民の埋め立て地の先に、海軍用地を埋め立ててつくった。それが現在の海上自衛隊用地であり、ヤマトミュージアム周辺一帯の地である。

 

 澤原家が進学を後押し

 

(写真:映画の原作となった漫画『この世界の片隅に』に登場する「三ツ蔵」。澤原家の酒蔵である)

 この澤原家は明治時代、海軍からの仕事として、建設資材などを納める仕事を行うが、それ以前には、酒屋をやっており、地酒造りにも精を出していた。近年、その時の酒蔵が、映画『この世界の片隅に』に登場する。あの"三つ蔵"が澤原家のものであることは知る人ぞ知る話だ。現在は映画のヒットとともにファンの間では有名な撮影スポットにもなっている。

 

 話を元に戻そう。そうこうしながら、澤原家は海軍からの仕事を引き受けていた。こうした中、当時、田園地帯であった呉の町は劇的に変わっていくのである。地場の農民衆は海軍の試験を受けて合格し、勤めに出始めた。田畑を担保ににしてお金を借りて、革靴をしつらえ帽子を被って通勤する。クワやカマを革のカバンに持ち替えて、である。呉市は近代化の流れを辿って変わっていいった。

 

 海軍から澤原家への支払いは、国が発行する金券であり、現金ではない。それを現金に換金する場所が求められたが、当時、広島市まで行かなければ、換金できる場所はなく不便であった。ならばと澤原が銀行をつくったという。

 

(写真:当時の澤原銀行<提供:澤原俊雄傳、澤原家>)

 設立は明治29年で「呉貯蓄銀行」といったが、明治39年に「澤原銀行」とし、昭和3年まで続いた。御用商人だけでなく、市民にとっても有用性の高い銀行であったのは言うまでもない。

 

 石本の進学の話から横道に逸れてしまったが、こうした呉市の大財閥である澤原家が営む澤原銀行の子息であり、野球好きの亮吉が審判をしている中で、石本に目をつけたというわけだ。結果、石本の慶大への進学に向けた流れを加速させたのだ。

 

 こうした澤原家に目をかけられた石本である。慶大進学に向けて澤原亮吉はあの頑固者の石本の父、和三郎をも説得するのである。

 

「澤原氏が石本少年の父親をくどいて『OK』をとってしまった」(「カープ十年史『球』」読売新聞)

 

 石本を推薦し、慶大への道筋をつけた澤原亮吉の家は、郡長を務め、庄屋としての地域をまとめ、酒蔵や銀行を営むという一大財閥でもあり、貴族院議員や、呉市長としても政界にもその名をとどろかせた。言わば石本にとっては大スポンサーであった。

 

「金の心配はいらん」とばかり、鬼が金棒を得たかのように石本青年は思う存分バットを振り回せる環境におかれ、何も不自由のない大学生活が待っているはずであった--。

 

 立ち聞きした先輩の話

 ところが、である。慶大の門戸をくぐり、野球部に入部した石本を待っていたのは野球ではなかった。待っていたのはなんと宴席である。先輩たちから大歓待を受け、「石本君、ようこそ慶応野球部へ」「よく来た石本。さあ、花の六大学だ」とばかりに、飲めや歌えや。「これが、大学の野球部か」と驚く石本であった。

 

 石本の驚きの様子が文献にこうある。
<「一日目は歓迎してくれるのだろうと思って、ビール、酒、ごちそうが運ばれるのを上気してみていた」>(「カープ十年史『球』読売新聞」)

 

 ところがこの宴席は、1日だけで終わらなかった。翌日も、その翌日も続いたのである。「いったいどうなっているのか……」。わけもわからず、いわゆる"おのぼりさん"である石本青年は先輩たちのドンチャン騒ぎに圧倒され、慣れぬ酒やご馳走でグロッキー気味となっていった。

 

 こうなると休息の場所は、宴席の合間、中座して駆け込む便所だけである。宴席を抜けて用を足しているとき、先輩らの会話を偶然耳にはさんだ。ここからは、後に石本の書生となった稲垣人司の証言テープと文献などから当時の便所での立ち話を再現する。

 

先輩A「石本のスポンサーはさすがだ。金に糸目をつけずに出してくれる」
先輩B「そうじゃー」
先輩A「ほれ、さあ、用を足したら、早く戻って、飲むとするか」
一同「そうしよう、そうしよう」

 

 文献にもこう記されている。
<「澤原さんの蔵には金はうなっている。このくらいではビクともしない」>(「カープ十年史『球』読売新聞」

 

 先輩たちの話を立ち聞きした石本は、「いくら何でも澤原さんのお金を酒代にして、飲み散らかすとは……」と胸が痛んだ。

 

<気勢の間に聞こえる話し声に石本少年はハッとした>(「カープ十年史『球』読売新聞」)
<「自分が澤原さんの世話でいることをダシにして連中は飲めや食えの散財をしている。いいかえれば自分が澤原さんの金で連中にふるまっていることになる」>(「カープ十年史『球』読売新聞」)

 

 ここから石本の自問自答が始まった。「こんな毎日でいいのか、澤原さんにも申し訳なく、一生頭が上がらなくなる。このままでいいのか、いや、いいはずがない!」。

 

 これが花の六大学野球なのか--。思い立ったら即行動が石本の身上である。高校受験でさえ親に勧められた県工の裏口から抜け出して広商まで走ってたどり着いた石本である。そのことを思い出したかのように、次の瞬間、行動を起こした。

 

<ボストンバック一つを持って、その後、こっそり旅館を抜け出し、広島行きのキップを手に汽車に乗り込んだ>(「カープ十年史『球』読売新聞」

 

 まだ、何も世間をわかっていない石本青年にしてみれば、つらい現実と、東京の怖さを知ったのであった。さあ、切符を片手に汽車に乗り込んだ石本の向かう先は、どこなのか。次回も乞うご期待。

 

【参考文献】 「カープ十年史『球』」(読売新聞)、『澤原俊雄傳』田口稔(今田印刷)、漫画『この世界の片隅に』こうの史代(双葉社)
【取材協力】 呉市文化振興課、呉市郷土史研究家・松下宏

【筆者注】 ※文献では「沢原」と「澤原」の二通りの記載あり。本文中は澤原に統一させていただきました。

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。最新著作「日本野球をつくった男--石本秀一伝」(講談社)が発売中。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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