「最初はもう嫌で嫌で……」

 忽那鐘太は2人の兄が通う松山ラグビースクールの練習グラウンドに着いても、ふて寝ばかりだったという。この時、忽那はまだ2歳。ラグビーが嫌いというよりは、慣れない場所に連れて来られることが嫌だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 最初はチームの監督と簡単なパスの練習からスタートした。忽那からすれば練習というよりはボール遊びに近い感覚だった。次第にボール遊びに夢中になり、いつしかラグビーが好きなっていた。

「気が付くと、ラグビーを始めていました」

 

 野球や鬼ごっこ……。小さい頃はとにかく外で遊ぶことが大好きだった。「両親にはやりたいことをやらせてもらいました」。鉄工所を営む両親からは、何かを強制されることはなかった。

「小さい頃はヤンチャだったと思います。ただ両親が頑張って働いているのは知っていたので、悪さだけはしませんでした」

 両親から兄と比較されることもなかった。長男・幹太、次男・健太と仲の良い3兄弟だった。

 

 愛媛県松山市で、のびのびと育った忽那は2人の兄を追いかけるように松山ラグビースクールに入団した。正式にチームに入ったのは5歳になってからだ。幼稚園の年長だったが小学1、2年生にまじって試合に出ることもあったという。

「初めて出た試合では、タックルのやり方もわからないのでタッチライン側を走る相手を突き飛ばして押し出していました。もちろんペナルティーなんですが……それくらいルールもわからず始めていました。今でもその時のことは覚えていますね」

 

 ボールを持てば、ただひたすらトライを狙った。

「すぐボールをもらって、ゴール目掛けて走りたかった。パスすることなんてまるで考えていませんでした」

 今では味方のトライをアシストすることに喜びを感じるスタンドオフだが、当初はトライゲッターに憧れた。

 

 縁のなかった全国大会

 

 父親は高校時代、陸上の長距離選手だった。高校卒業後も駅伝選手としてクラブに所属していた。忽那3兄弟も走ることは苦手ではなかった。「抜群に速いというほどではなかったです」と言うが、運動会ではリレーの選手を務めた。スピードを生かし、ピッチを駆け抜ける。それが気持ち良く、忽那にとってのラグビーだった。

 

 チームは四国では敵なし。だが全国で腕を試すような機会はなかった。小学6年時の秋には兵庫で行われた「ラグビーマガジンカップ関西ミニ・ラグビー交流大会」に参加した。大阪府や兵庫県の強豪チームに「ボッコボコにされた」という。だがラグビーを嫌いになることはなかった。それどころか“こんなすごいんか。楽しいなぁ”と、モチベーションになった。

 

 小学校卒業後、2人の兄と同じ地元の城西中に進んだ。愛媛県にはラグビー部のある学校は珍しい。城西中は数少ないそのひとつだった。

 

 四国で敵なしだった小学生時代とは違い、中学では北条北中という強敵が存在した。愛媛県中学校総合体育大会では北条北の優勝、城西中の準優勝が続いた。中学3年間も全国大会に縁がないまま終わった。

 

「挫折はあまりなかった。ずっとラグビーが楽しくて好きで、やっているという感じでした」

 そんな忽那が「挫折」と感じたのは3年時の夏である。関西中学生大会で愛媛県選抜に選ばれた時のことだ。四国地区で1位になり、中国地区の1位と対決した。しかし、全国大会出場を懸けた決勝の舞台に立てなかった。

 

 決勝前、高校生との練習試合中に鎖骨を骨折してしまったからだ。「中2の時に腰椎分離症になったこともありましたが、試合に出られないようなケガは初めてでした。初めての挫折でした……」

 挫折とは言っても、忽那は腐ることはなかった。

 

「ラグビーが楽しくて好きだった」

 その思いは色褪せることはなかった。「ボールを持って抜き去るのが快感でした」。この頃まではトライを取ることに魅力を感じていた忽那が、パスに目覚めるのはもう少し先の話である。

 

(第3回につづく)

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忽那鐘太(くつな・しょうた)プロフィール>

1997年3月19日、愛媛県松山市生まれ。5歳でラグビーを始める。城西中を経て島根の石見智翠館高に進学。全国高校ラグビー大会(花園)には3年連続で出場した。花園では1年時がベスト8、2年時はベスト16入りを果たした。3年時はキャプテンを務めた。高校卒業後、明治大学に進み、1年時からAチーム入り。4年時には主力として全国大学選手権優勝に貢献した。今年4月、栗田工業に入社した。身長178cm、体重83kg。ポジションはスタンドオフ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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