2012年春、忽那鐘太(現・栗田工業ウォーターガッシュ)は城西中学を卒業し、地元愛媛を離れた。島根の石見智翠館高校に進学したからだ。同校ラグビー部は1990年創部。全国高校ラグビー大会、通称・花園の常連校で兄・健太(現・Honda HEAT)が2年前に入学していた高校だった。

 

 

 

 

 

 

 

「高校に関しては僕の中で石見智翠館一本でしたね。兄が出場した花園を観に行っていました。そこでファンになったことが大きかったです」

 バックス中心のランニングラグビーに惹かれ、進学を決意した。

 

 初の全国大会

 

 忽那が入学して驚かされたのは身体づくりだ。炭酸飲料、スナック菓子、カップ麺は禁止された。朝晩の食事では白米を1kg摂取しなければいけない。食事で得た栄養素をウエイトトレーニングで筋肉に変えた。

「本当大変でした。それまでは身体づくりのことなんて考えたこともありませんでしたから……。入学したばかりの頃は中学生の身体です。3年生の体格と全然違う。先輩たちのようになりたいとトレーニングに励んでいました」

 

 先輩たちとの体格差に面食らったことはあれど、ラグビーではすぐにチャンスを掴んだ。

 春に行われた長崎南山高校との練習試合で、いきなりフルバックで起用されたのだ。当時の石見智翠館は春の全国高校選抜大会で準優勝を果たしている。そのメンバーに割って入るのは容易ではない。忽那に対する期待値の高さを窺わせる。

 

 忽那本人の述懐――。

「この日は奈良の御所実業と1年生同士の対戦がありました。試合後、雑務などを行っていました。監督の安藤哲治先生から呼ばれて『フルバックいってみい』と言われました。もちろん驚きました。その試合でラインアウトからのアタックでトライに繋がるプレーができました」

 忽那は「たまたまです。運が良かっただけ」と謙遜するが、巡ってきたチャンスで結果を残した。“持っている”のだろう。そこからずっとAチームでプレーすることができた。主にポジションはウイングだった。

 

 岐阜で開催された秋の国民体育大会(国体)では少年男子の部で石見智翠館は島根県選抜として出場した。忽那も1年生ながら3位入賞に貢献した。彼にとって初の全国大会で結果を残した。

 

 実りの秋を経て、冬はいよいよ花園の季節だ。22年連続22回目の出場となった石見智翠館は春と秋の好成績でシードとなった。初戦は2回戦。大雨の中での試合は忽那にとってAチームデビューの相手・長崎南山と対戦した。後半18分まで21点のリードを許した石見智翠館だったが、怒涛の追い上げを見せ、26-26でタイムアップ。規定により抽選の結果、3回戦に勝ち上がった。

 

 しかし、石見智翠館はアクシデントに見舞われる。雨の激闘の代償か、レギュラーメンバーに体調を崩す者が現れる。忽那もその1人だった。

 流通経済大学柏は元日に行われた。31-5で快勝。忽那自身は体調が万全でなく精彩を欠いたが、石見智翠館は花園初のベスト8進出を果たした。

 

 花園で初の準々決勝。石見智翠館のメンバーには硬さが見られた。「準々決勝は第1グラウンドで4試合。観客の数がそれまでとは違い、僕も超緊張しました。チームにも地元の期待、島根県勢初の準々決勝の大舞台といういろいろな要素があり、いつも通りではない何かがありましたね」と忽那。国学院久我山に12-29で敗れた。選抜大会準優勝、国体3位、花園ベスト8。過去最高の成績を置き土産に、兄・健太を含めた先輩たちは去った。忽那は「自分たちの代までに優勝する」と決意し、“兄を超えたい”との思いを強くした。

 

“兄を超えたい”

 

 キャプテンでスタンドオフ(SO)の兄・健太が卒業し、新チームにおける司令塔役は不在となった。後釜に据えられたのは忽那だった。SOの経験はあった。だが忽那が「本格的に始めたのは高校2年になってから」と語るように、その奥深さを知ったのは、この頃からだった。

 

 ラグビー観そのものが変わったと言っていいかもしれない。それまではトライを取ることにフォーカスしていた忽那にしてみれば、味方を生かし、相手をどう崩していくかを第一に考えなければならなくなった。

「監督とバックスコーチの先生にラグビーのロジカル的な部分を教わりました。それまでは全く知らなかったので、何をしていいかわからなかった。怒られてばかりでした」

 

 攻撃のタクトを振るい全権を任されるSOの仕事は多岐に渡る。2個、3個先のプレーを読み、ゲームを組み立てる。前のスペース、外のスペースを見る。エリアマネジメントはもちろん、自らが突破役を担うこともある。「やることが多く、すごく混乱し、パンクしました」と忽那。葛藤の日々が続いた。

 

 春先の選抜大会は予選リーグで敗退。昨年の準優勝校の早期敗退。「新チームが始まったばかりで気落ちすることはなかったですね」と悲観することはなかったという。司令塔としての苦悩は続いていたが、忽那は“辞めたい”とは思わなかった。

「大変でしたが、楽しさの方が勝っていました。サインプレーを考え、攻撃の意思決定はSOの仕事です。僕が決めたサインプレーが成功した時はとても楽しかった。そこにやり甲斐を感じました」

 

 1人で背負い過ぎた忽那をサポートしてくれる仲間がいた。

「夏合宿で『こうなったらこうしよう』『こういう場合はオレたちに任せろ』と、先輩に助けていただきました。役割分担をすることでやりやすくなりました」

 

 しかし、秋の国体でまさかの黒星を喫した。1回戦の相手は青森北高校のメンバーを中心とする青森県選抜だった。「聞いた話では『国体で島根が青森に勝ったことない』と。だから僕たちは『歴史変えようや!』と気合いを入れていたのですが……」。結果は12-14で惜敗した。「島根の人たちも(国体の会場となった)東京まで応援に来てくださったのに裏切ってしまい、最悪の結果でした」。1回戦敗退で東京を後にした。

 

 リベンジの機会は冬に訪れた。花園1回戦の相手が青森北だったのだ。「もうなるようにしかならんから」と安藤監督に声を掛けられた忽那たちは、“ノーシードからジャイアントキリングを起こしてやるぞ”という気持ちで臨んだ。前半を29-7でリードした。後半も攻め手を緩めず2トライ2ゴール、相手を無得点に抑えた。石見智翠館は43-7で圧勝した。

 

 国体の借りを返した石見智翠館は勢いに乗った。2回戦は茨城の茗渓学園は昨年ベスト4のシード校だ。

「組み合わせが決まった時点でここをターゲットしていました」

 持ち味のランニングラグビーで21-12とシード校を撃破。3年連続でのベスト16入りを決めたのだ。

 

 3回戦は元日に兵庫県の報徳学園と対戦した。のちに日本代表にも入る梶村祐介(現サントリーサンゴリアス)を擁する個々の突破力に優れる強豪校だ。試合は得点の奪い合いで拮抗した展開。終了間際にモールからトライを奪い、20-20と追いついたものの、トライ数の差で敗れた。忽那は梶村を意識するばかりにトライを取られたシーンを「僕とフォワードの選手の間を抜かれた。“先輩たちの代を終わらせてしまった”と、一番悔いが残っています」と振り返った。

 

 最終学年となり、忽那はキャプテンになった。2年前の兄・健太とはポジションも同じ。これまで以上に2人は比較されるようになったという。

「兄のキャプテンシーには尊敬する部分しかありません。身体を張り、言葉でも引っ張れる。全部できていて、これがリーダーという存在です。オンとオフの使い分けもうまかった。僕に対しては『ラグビーをやっている時は弟とは思わない』と誰よりも厳しく接していましたが、ラグビー以外では2人で他愛もない話もする。そのおかげで僕もホームシックにもならなかったと思います」

 それでも“兄を超えたい”という気持ちに変わりはない。偉大なる兄を追いかけ、追い越さんとする1年がスタートした。

 

(最終回につづく)

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忽那鐘太(くつな・しょうた)プロフィール>

1997年3月19日、愛媛県松山市生まれ。5歳でラグビーを始める。城西中を経て島根の石見智翠館高に進学。全国高校ラグビー大会(花園)には3年連続で出場した。花園では1年時がベスト8、2年時はベスト16入りを果たした。3年時はキャプテンを務めた。高校卒業後、明治大学に進み、1年時からAチーム入り。4年時には主力として全国大学選手権優勝に貢献した。今年4月、栗田工業に入社した。身長178cm、体重83kg。ポジションはスタンドオフ。

 

(文・写真/杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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