「自分は自分なりにやりたかった。兄弟と言えど人それぞれですから。でも周りは比較する。それが本当に嫌でした」

 忽那鐘太(現・栗田工業ウォーターガッシュ)は石見智翠館高校3年時にはキャプテンを任された。ポジションも同じスタンドオフ(SO)で、兄・健太(現・Honda HEAT)との比較は嫌というほどされた。

 

 

 

 

 

 

 

 忽那主将の新チームは春の全国高校選抜大会、秋の国民体育大会はいずれも予選敗退だった。一昨年は選抜準優勝、国体3位、全国高校大会(花園)ベスト8と過去最高の成績を残した。新チームは前年度のレギュラーは3人しか残っておらず、高校日本代表候補も減った。戦力ダウンは明らかだった。

「経験が少なかった。まずは場数を増やすことでチーム力アップに繋がると思っていました」

 

 3大会連続ベスト16入りを果たしている花園は、前年に続きノーシードで臨むこととなった。

 24年連続の出場が決まって以降は恒例の校内合宿を行った。数日間、早朝から夜中まで練習に明け暮れた。自らを追い込むことでチームとしての底力を付けていった。天理大で行う“天理合宿”では関西の強豪校と試合を組み、経験不足を補っていった。

 

 大会前にOBからのビデオメッセージをもらい、奮起した。初戦は宮城代表の仙台育英が相手だった。序盤に先制した石見智翠館だが、連続トライを取られ逆転を許した。ここで忽那がキャプテンの意地を見せる。前半18分、敵陣深くのスクラムから忽那が力ずくで押し込んだ。忽那の「気持ちの入ったトライ」で追いつき、コンバージョンキックが決まり、再びリードを奪った。

 

 後半も司令塔の忽那を起点に石見智翠館ペースで試合は運ぶ。4トライを記録するなど、49-17で快勝した。次戦はBシードの千葉代表の流通経済大学柏だ。2年連続シード校撃破に燃える忽那をはじめとする石見智翠館だった。

 

 先制したのは石見智翠館。試合終了間際まで7-5と2点リードしていた。自陣でペナルティーを与えると、最後はモールで押し込まれた。7-10でノーサイド。「ボールをキープし続ければ勝てたかもしれない。今思えば、ちょっとした気の緩みもあったかもしれません」。土壇場での逆転負けで4年連続のベスト16は逃した。

 

 憧れの紫紺のジャージー

 

 高校卒業後、忽那は明治大学に進んだ。当時、兄・健太は筑波大学3年だった。初めて兄とは違う道を選んだ。明大は言わずと知れた伝統校。関東大学対抗戦、全国大学選手権を2桁以上制している名門だ。忽那も幼少期にテレビで早明戦を観ていた。“あの舞台に立ちたい”。紫紺のジャージーには憧れを抱き、その願いはのちに実現することとなる。

 

 しかし明大のポジション争いは熾烈だった。SOには3学年上に田村煕(現・サントリーサンゴリアス)、1学年上には堀米航平(現・リコーブラックラムズ)がいた。そして同学年には東福岡で全国制覇を成し遂げた松尾将太郎(現・NTTコミュニケーションズシャイニングアークス)もいた。

 

「特に将太郎とは1年の時からずっとポジションを争ってきました。アイツがいたからこそ自分は成長できた。2人で切磋琢磨してきたという思いもあります。最後はどちらが10番(スタメンのSO)で出るかにこだわりました。将太郎が10番で試合に出る時は“あいつのパフォーマンスがいいんだ”と納得していましたが、それでも相当悔しかった。お互いにそうだったんじゃないかなと思います」

 

 1年生でAチームに呼ばれた。春季大会で早々にデビュー。紫紺の10番を背負った。「テンション上がりまくっていたので、試合のことは全然覚えていません」。無我夢中に走り抜けた1年だった。順調な競技人生を送るかに思えたが、夏はBチーム、CDチームに落とされた。

 

“今年こそは”と意気込んだ2年のシーズンだった。春はAチーム。しかし夏合宿で左ヒザの前十字靱帯を切ってしまう。復帰したのは翌年の6月。約1年を棒に振るかたちとなった。だが気持ちは切れなかった。

「ケガをしたことで練習を見学し、客観的にチームや選手の特徴を知ることができました。この期間はラグビーをしたくてたまらなかった。自分どれだけがラグビーが好きか、再確認しました。自分のどこがダメで、どこを伸ばすべきか。考える時間はたくさんありました」

 

 復帰戦は大東文化大学とのBチーム戦だ。「ブランクがあり、ゲーム感覚がまだ本領発揮できませんでした。エリア取りなどそれなりのパフォーマンスができました」。秋が深まるにつれ、忽那はAチームに割り込んでいくレベルまで上げた。このシーズンの明大は全国大学選手権大会決勝に進んだ。だが忽那はそのピッチに立てなかった。1学年上の堀米がスタメンで起用されていたからだ。チームは帝京大学に1点差で敗れたものの、19年ぶりの決勝進出に名門復活を印象付けた。

 

 忽那が最終学年となると、明大はヘッドコーチだった田中澄憲氏が監督に就任した。春のオープン戦、夏合宿でも負け知らずで突っ走った。大学選手権9連覇中の帝京大を破るなど好調を持続した。この頃には対抗戦で優勝候補に挙げられていた。9月にスタートした対抗戦は開幕3連勝と勢いに乗る。

 

 ところが、11月4日に旗色は変わる。慶應義塾大学戦は24-28で敗れたのだ。東京・秩父宮ラグビー場に詰めかけた1万5000人を超える観衆。明大の選手たちに硬さが見られたのは明らかだった。2週間後の帝京大戦には勝利したものの、12月2日の早稲田大学戦を落とした。対抗戦は5勝2敗で慶大と並ぶ3位タイ。当該チームの勝敗で大学選手権は4位扱いで臨んだ。

 

 ひとつになった“決起集会”

 

 選手権に向かう前に明大は4年生全員が集まった。場所は合宿所の近所に部員行きつけの中華料理屋。そこで“決起集会”が行われた。とはいえ最初はいつもと変わらぬ食事会の雰囲気だったという。まずキャプテンの福田健太(現・トヨタ自動車ヴェルブリッツ)が切り出した。

 

「みんな力を貸してくれ」

 福田の言葉に4年生全員が応じた。忽那は振り返る。

「オンオフの切り替えの上手いキャプテンです。でもアイツなりに抱え込み過ぎていた部分もあったんでしょうね。その席でみんながひとりずつ思っていることをしゃべったんです」

 

 ロックの小宮カズミ(現・リコー)は「去年準優勝して期待されている。その重圧がすごくて委縮している。いいプレーしても喜んでいない。ラグビーを好きでやっているのに、楽しむという本質を忘れていないか?」と言った。

 怱那の思いも同じだった。

「僕もラグビーは楽しいからやっている。誰かがミスをしても“次、頑張ろう”というプラスの言葉が大事。もっと自由に、楽しんでやったらいいんじゃないかという話をしました」

 

 食事会後は温泉に行った。チームの幹となる4年生がひとつになった。大学選手権準優勝だった前年度を超える戦いが始まった。3回戦は立命館大学に50-19、準々決勝は東海大学に18-15で勝利した。この2試合は背番号10を松尾に譲ったが、準決勝からは忽那が背負った。準決勝は対抗戦で敗れた早大を下した。31-27と息詰まる熱戦を制し、2年連続の決勝進出を果たした。

 

 そして迎えた1月12日、東京・秩父宮ラグビー場で大学選手権決勝は9連覇中の帝京大を破った天理大学が相手だった。忽那はスタメンで起用された。前半3分、いきなり先制点を奪われた。実は田中監督からは「絶対に先制点を狙え」と言われていたという。会場の秩父宮には多くの明治ファンが詰めかけることが予想できた。また天理大はリーグ戦で先制点を取られたことがなかった。チームの分析では先制点を奪えば、天理大が崩れると考えていのだ。

 

 その明大の思惑は外れた。だがピッチ内の選手たちは慌てていなかった。

「監督から言われていたのにパーンいかれてしまった。でも“やばい”と焦ることはありませんでした。インゴール内でのハドル(円陣)でも『ここからいこう』『絶対勝てる』とポジティブな言葉が溢れていました」(忽那)

 

 明大フィフティーンは躍動する。7分に同点に追いつくと、22分だった。ラインアウトから福田が仕掛ける。外に展開すると見せかけ、斜めに走り込んできたウイングの高橋汰地(4年)にパス。裏を突かれた天理大のディフェンスラインを打ち破った。忽那も囮役としての仕事を果たしていた。抜け出した高橋はインゴールに飛び込んだ。

 

 忽那は「タンク・エックス」と呼ばれたサインプレーを振り返る。

「練習通りでした。気持ち良かったです。あのプレーはみんなで同じ画を見れていましたね」

 明大はその後も天理大を突き放すと、22-17で逃げ切った。後半11分に松尾と交代していた忽那はノーサイドの瞬間、ベンチからピッチに向かって猛ダッシュしていた。歓喜の輪が作られ、22年ぶりに明大が大学日本一に輝いた。

 

 すべてをコントロールできるように

 

 忽那は就職先に栗田工業を選んだ。

「はじめはトップリーグのチームに入ることを考えていました。栗田工業の熱いオファーを受け、グラウンドも新しくなり環境も良いので決めました。そこにはトップチャレンジで成長したいという思いもありました。自分もチームも成長してトップリーグを目指せたらと思っています。それにラグビーを引退した時のことも考えると、他の社員と変わらず仕事をすることで学びたかった」

 

 学生時代は違い、仕事をしながらのラグビー生活だ。明大時代、全体練習は朝練のみ。あとは個人練習に費やすことができた。栗田工業では業務を終えた夕方からがラグビーの時間だ。慣れない仕事を終えてから、ようやくトレーニングに入る。ラグビーと向き合う時間が取れないストレスと戦っている。「時間の使い方がもっとうまくなればいいのですが……」。今は寝る時間もなかなか作れない。セルフマネジメントはこれまで以上に必要になる。

 

 同じポジションにはタマティ・エリソンという元オールブラックス(ラグビーニュージランド代表の愛称)の選手がいる。

「タマティさんというトッププレーヤーから学べることは多い。スタンドオフに定着して、ひとつでも上のレベルにいけるよう頑張りたいです」

 タマティはユーティリティーバックスである。忽那との共存も可能だ。

 

 栗田工業はトップリーグの2部に相当するトップチャレンジリーグに属する。昨シーズン、トップリーグとの入れ替え戦に出場するなど、トップリーグ昇格まであと一歩と迫った上昇気流にいるチームだ。6月にスタートした今シーズンのトップリーグカップではトップリーグのチームと対戦する機会に恵まれた。

 

 22日、兄の健太が所属するHondaが相手だった。試合には3-33で敗れたが、忽那はSOとしてフル出場を果たした。「ブレイクダウン(タックル成立後のボールの争奪戦)の圧力、アタックの厚みを感じました。“トップリーグだとこんなにも違うのか”と思い知らされましたね」。兄のタックルを受け、ボールを前に落とすシーンもあった。

 

 それでも忽那はポジティブだ。

「栗田工業が通用する部分もありました。チームとしては模索中。今はトップリーグにチャレンジできるいい機会です」

 トップリーグ昇格を目指し、忽那は前を見つめている。「ゲームをコントロールできるプレーヤーになりたいです。劣勢の時でも、格上相手でも自分のキックやパスでマネジメントしたい」。前向きな司令塔のゲームメイクで、チームをトップへと前進させる。

 

(おわり)

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忽那鐘太(くつな・しょうた)プロフィール>

1997年3月19日、愛媛県松山市生まれ。5歳でラグビーを始める。城西中を経て島根の石見智翠館高に進学。全国高校ラグビー大会(花園)には3年連続で出場した。花園では1年時がベスト8、2年時はベスト16入りを果たした。3年時はキャプテンを務めた。高校卒業後、明治大学に進み、1年時からAチーム入り。4年時には主力として全国大学選手権優勝に貢献した。今年4月、栗田工業に入社した。身長178cm、体重83kg。ポジションはスタンドオフ。

 

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(文・写真/杉浦泰介)

 

 

 

 

 

 

 


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